翼を失くした竜 〜空と風の彼方〜


「ねえ、グース、どこ? わたしには見えないけど?」
 
 グースの腰に手を回して背中にぴったりと張り付いていたリシスが、彼の肩越しから声を張り上げた。
 
 栗色の長い髪が流れ、ものすごい勢いで風が通り過ぎていく。

 いや、風を切っているのはグースとリシスのほうだった。
 はいりゅう                             ふうしぞく
 灰竜と呼ばれる中型の竜を操る風士賊の若者グースとおさななじみのリシスは、その古代の生き物の背中

に乗って、眼下の森を食い入るように見つめていた。
     
ふうし    おさ                                                           としおさ
「次代、風士の長はグースに」「そろそろ彼に”竜の証”を」などという話が年長の連中から持ち上がり、そのこ

とで兄のマディオンと言い争いをした彼は、どうしても一緒に来たいというリシスを伴って憂さ晴らしに空へと飛

び出したのだが、どうやら運良く手ぶらで帰ることだけは免れそうだった。

 月明かりの下、黒い波のような闇の中に一瞬だけ点のような淡い光が洩れるのを、竜並みに目の利くグー
                                      
みどり  
スは決して見逃がさなかった。リシスはよく、そんなグースの瞳を碧の宝石のようだと例えている。

「いいよ、リシスには見えなくて。突っ込むから振り落とされるなよ」

 竜と同じ灰色がかった髪の少年は、リシスの返答も聞かずに手綱を引くと、灰竜のヴァルシーガを旋回させ

て、急下降の姿勢をとった。

「風を怒らせるな。お前にも見えてるだろう? 獲物はあれだ」

 ヴァルの首筋につかまって、囁くように声を掛けると、竜の胴体に装備しておいた槍をグースは手に取った。

「リシス、手綱を持て! 後はヴァルに任せろ」

 自分に抱きついているリシスに手綱を渡して、グースは徐々に近づいてくる木々に備えた。

 両足に力を入れて踏ん張ると、槍を斜めに構える。

 ヴァルは、光が移動していく方向と木々の切れ間を狙い、まるで計算したかのように頃合いを見計って森に

突っ込んだ。その硬い翼をバサリとひと扇ぎすると、突風と共に枝や木の葉が舞い上がり、それらに行く手を

阻まれて咄嗟に身を守ろうと腕で顔を覆った人物の前には、槍を構えるグースの姿があった。

「そこまでだ! 金目の物を置いていけば、命だけは助けてやる。残念だが悪く思うなよ」

 そう言ってにやりと笑ったグースの正面、対峙した人物が腕を下ろすと、月の淡い光に照らされてその容姿
                                         
えんじ   
が浮かび上がった。年はグースと同じか、二つ年上といったところか。臙脂のマントを纏った長身の男で、夜

闇の森のような黒い髪をしている。
                                        

「あえて街道を通らずに危険な森を通って姿を隠そうとしたのは誉めてやるが、ヴァルとオレの目には通用し

なかったぜ」

「なら、これはどうだ?」

 先程の風で火の消えてしまったランプを放り投げると、男はそれを合図にマントを払い、腰の脇から素早く何

かを取り出した。鈍い光が反射したかと思うと、グースの目の前を細い光と風がなびいた。

「剣士か! お前!」

 グースは慌てて体をのけぞり、槍を構え直した。
                            
かわ 
 が、途端に二撃目が振られ、なんとか寸前で躱したグースだったが、さらに返しの一閃が襲い掛かり、槍を
                                     
うわて  
弾かれて無様にも尻もちをついた。どう考えても相手のほうが上手だ。
                                  

 直後。

「やだ! なにすんのよ!」

 聞いたほうがびっくりするくらいの怒号が響き、グースと剣士は同時にはっと動きを止めた。

 灰竜の背中から慌てて降りてきた声の主はリシスだった。

 
呆気に取られている剣士の様子に気が付いたグースは、気づかれないように弾かれた槍を手に取ると、思 い

きり真横に振って男の足元をすくってやった。

 同じように尻もちをついた男の胴と肩をヴァルが押さえ込み、その手から剣をもぎ取った。

「いいぞ、ヴァル!」

 内心、助かった、と安堵しながら、グースは立ち上がった。

 そこへ、リシスが寄ってきて、彼の腕に両腕をからませた。

「ありがとう、リシス。ヴァル、見せてくれ」

 グースは安心させるように彼独特の笑顔をおさななじみに見せてから、最良の友に手を差し伸べた。

 首だけを寄こして、ヴァルは口にくわえた剣をグースに渡した。

 少し格好つけて月に向かって剣を振り上げると、グースは風士賊の目で品定めを始めた。

「へ〜、結構な代物だな。ただの剣じゃないぜ」

「なかなか目が利くじゃないか。噂の風士賊にお目にかかれて光栄だが……」
   
ザマ
「その様じゃな?」

 ヴァルに押さえつけられながら不意に口を開いた男を一瞥して、グースはにやりと笑った。

「ふーん、すげえな……」

 見れば、月の光を受けて剣自体が不思議な淡い輝きを放っている。

「エルフの剣だ。本物を見るのは初めてだぜ」

「返せ。奪ったところでお前には使えない」

「選ばれた者にしか与えられない剣なんだろ? あんた以外、誰も使えないだろうな。でも、これだけの貴重な

代物、使えなくたってかなりの値打ちで売れる」

「呪いがあるかもしれないぞ」

「今さら脅しか?」

 グースは少し考えてから、ふと、灰竜の名を呼んだ。
            くわ
「ヴァル、この男を銜えて岩間の集落まで飛べるか?」

 そう問いかけると、ヴァルは蒼い眼をグースに向けて、鼻から息を吹き出した。承知した、という意味だ。

「よし。リシス、戻るぞ」

「この男も連れて行くの?」

 何を考えているの? と不思議がるリシスをヴァルの背中に押し上げて、グースは自分も竜の背に跨った。



「なぁ、あんたさ、風士賊になる気ないか? あんたの腕、絶対使えると思うんだ」

「断る」

 鉄格子の向こう、檻に入れられた黒髪の剣士が鋭い眼差しをグースに向けてきた。

「私はこんな所で道草を喰っている暇はないんだ。それに、風士賊のために使うような腕は持っていない」

「たとえば、あの剣をあんたに返すと言っても?」

「ここから解放してくれるのならな。もっとも、地上に戻れないのでは同じことだが」

「強情だな〜」

 確かにそうだ。この岩間の集落は断崖の山腹に作られているため、灰竜の背にでも乗らなければ、人間の

足で下山することは到底出来ない。まして、檻に入れられたままでは剣の意味もなさないだろう。

 こっちは良心的でいるのに、という言葉をあえてグースは呑み込んだ。

 ひんやりとした夜風が二人の間を通り抜けていく。
             
ずいどう
 山の岩肌を削って、隧道を幾重にも掘りつなげた風士賊の集落は、いたるところに空気を通す風穴が

開いているため、常に風が流れているのだった。

 数秒、睨み合いの沈黙が流れ、グースはふとあることを切り出した。

「北の国で戦が始まるらしいじゃないか。おおかた、あんたはそこへ参じるつもりなんだろ?」

「分かってるのなら、何故こんな所へ連れてきた? あの場で解放すればいいものを」

「まあな。ちょっと興味があったんだよ。精霊に剣を託されるなんてそうあるものじゃない。あんたが余程の

人物だってことだろ?」

 剣士の若者は何か言いかけた言葉を噤んで、気持ち一歩前へ身を乗り出した。

「お前も一族の掟の中に生きる者なら分かるだろう? 一人前になることの意味が」

「なんだよ、説教しようっていうのか?」

「私はここから出たいだけだ。剣士の家系にも掟がある。自分に相応しい剣を自ら探し出すのが一人前の証

だ。私はようやくあの剣を手に入れ、認めてもらうために国に帰らねばならない。そうだ、お前の言った通りだ

よ。戦が始まる……君主のためにあの剣を掲げるのが私の使命なんだ」

「……そうか。それは偉いことで」

 剣士の懇願をグースは呆気ないほどに、簡潔に一蹴した。その顔にはなぜか影が差している。

 何が気に障ったのか、そのまま何も言わずに立ち去ろうとするグースの背中に剣士が「待て!」と声を投げ

ると、不意に何かを思い出したように風士賊の若者は振り向いた。

「あの剣は俺がしばらく預かる。いつ気が変わるか知らねえけどな。オレはグースだ。あんた、名前は?」

 そう問われて、一瞬だけためらった剣士の青年は、あきらめたように大きく息をついた。

「……ラングリーアだ……」


                      おさ 
「すごいわ、グース! これできっと、長もあなたを認めてくれるわね!」

 旅の剣士ラングリーアを捕らえてから数日後のある夕刻、グースが野生の灰竜を手なずけたという吉報は、

またたく間に集落中に伝わっていった。

 今では数の減ってしまった野生の灰竜を手なずけるのは、熟練の竜使いでも、竜の心を知る風士の長でも

難しいことだと謂われている。それを成し遂げた者はここ何十年と現れず、快挙と言っても過言ではなかった。

 長の次子がまたすごいことをやったぞ、と集落の皆が祝福に集まってくる中、偉業を成し遂げた者とは思え

ないような暗い顔で、グースはある人物の姿をその目で捉えていた。

 兄のマディオンだ。

 年が十歳近くも離れている上に、異母兄弟であるせいか、グースにとってはあまり接点のない人だった。

 弟であるグースのほうが、風士賊としても竜使いとしても兄より才が上であることをまわりの誰もが認めてお

り、いつ頃からかマディオンが妬んでいることを、彼らの近くにいる者ならば暗黙の内に承知もしていた。

 そのマディオンが剥き出しの腕を組んで、何か言いたげな目つきでこちらを見ている。

「ねえ、グース。あの灰竜の話を聞かせて?」

「ごめん。少し休みたいんだ。悪いな」

 脇ではしゃいでいるリシスと、集まってきた賊の仲間たちに頭を下げると、グースは喜びの余韻も残さずに

自分の部屋へと向かった。素っ気ない態度に興醒めした群集が散っていくのを背後に。

(マディオンにこの間のことを蒸し返されたら、堪らないな) 

 先日の喧嘩のことである。結局あれは、「はい」も「いいえ」も言えなかったグースに、マディオンが苛立って

腹を立てたのだ。自分の気持ちも何も認められなかったグースが出来たのは、その場から逃げ出すこと。

 マディオンにしてみれば、自分に遠慮するグースが尚のこと煩わしかったに違いない。

 グースは自分の部屋の寝台に寝転んで、自然そのままの岩肌の天井を見つめた。 

 何となしに思い浮かべたのは、牢屋にいる例の剣士のことだった。

 朝と夜の二度、グース自らが食事を運んでいるのだが、あれ以来、ひと言も口は聞いていない。

 初めて会った時からか、話をしてからかは分からないが、なんとなく自分と照らし合わせてラングリーアを見

ていることに、自分でも気が付いていた。生まれも境遇も違いはあるが、どこか似ている気がする、と。

 グースとて掟の中に身を置くことの厳しさは誰よりも知っているつもりだ。

 ここにいる限り、風士賊である限り、自分は一生目に見えない足枷をはめられたままなんだ、と人知れず常

に感じてきた。それは、兄の存在を越えたと自覚した時から、心に重くのしかかり始めたものだった。

 たとえ、一人前と認められて”竜の証”を授かったところで……足枷が外れることはないだろう。

 不意に、扉を叩く音がして、グースは慌てて身を起こした。

「お手柄じゃないか」

 戸板を開いて中に入ってきた人物が後ろ手にそっと扉を閉めながら、押し殺した声でそう言った。

 マディオンである。とてつもなく嫌な雰囲気だ。

 グースは何も言わずに寝台から降りると、裸足のまま床に立った。
         
       おとしめ
「お前、よほどこの俺を貶めたいらしいな」

 それはあまりに突然だった。グースが口を開く間もなく、マディオンが寄ってきて彼を床に押し倒すと、腰帯

に差し込んでいた曲刀を抜き払って、弟の喉元に刃先をあてがった。

「兄者……!」

お前、牢屋に俺の暗殺者をかくまってるらしいじゃないか。いったいどういうつもりだ?」

「暗殺者?! 違う! ラングリーアはただ、オレが……」

「俺が怖いか?」

 その言葉と同時にマディオンの腕に力が入るのを直感したグースは、兄の腹を膝で蹴りあげ、素早く体を回

転させて脇に逃れた。

「ちっ!」

 マディオンの苦々しいまでの舌打ちが耳を打つ。

「俺を嘲るのがそんなに楽しいか?」

「違う! 楽しい訳がないだろ!」

「俺はお前のように甘くはないぞ。待ちもしなければ遠慮もしない。お前がいつまでも逃げ回ってるんなら、俺

が先にお前を狩ってやる!」

 何か武器になる物は? とまわりに視線を走らせるグースに、マディオンは容赦なく再び刃を向けてきた。

 はっとした時には、殺意むき出しの冷たい刃先が右腕をかすめていた。

 丸腰では分が悪すぎる、と焦る気持ちに追い討ちを掛けるかのように、マディオンが咄嗟に繰り出した足払

いが見事に決まり、足を取られてすっ転んだグースは、後ろの壁面に後頭部をしたたか打ち付けた。

 さらに、マディオンの憎しみのこもった左手がグースの喉を押さえ込み、右手の曲刀を構え直した。

 じりじりと喉元に熱さが込み上げ、同時に息苦しさが支配していく。

 恐怖というよりも、何故に自分が襲われていているのかという困惑のほうが大きかった。

 マディオンの気持ちが分からない訳ではない。むしろ、誰よりも兄の存在を感じ、見てきたのはグースなの

だ。ただ少し、お互いを理解するには不運な境遇に置かれてしまったのかもしれない。

 (駄目だ、殺される)

 グースが半ばあきらめかけた時だった。

「何をしているの……!」

 よく知っている少女の声が場に割って入った。   

 細められたグースの目に、先刻、広場に残してきたはずのリシスの姿が見えた。 

 それと同時に、首に掛けられていたマディオンの左手が緩み、意外にも彼は構えていた曲刀をあっさりと脇

に下ろした。
                                      
きびす 
 訳が分からずに困惑するグースを余所に、マディオンはくるりと踵を返してリシスに近づくと、驚いて後ずさる

彼女を壁に追い詰めて、曲刀をちらつかせた。
 
「いま見たことは忘れろ。誰にも言うな。言えばグース諸共……だ!」

 マディオンはそう言って、曲刀をリシスの目の前で真横に引いてみせると、呆気に取られているグースに鋭

い視線を投げて、部屋から出て行った。

「グース!」

 まだ呆然としているグースに駆け寄ったリシスは、彼の両手を取って、ほっと安堵の息をついた。

「どうしてマディオンが?」

「……オレが聞きたいよ。それより、リシスはなんで?」

「長がグースを呼んで来いって、わたしに」

「親父が?」

「一緒に行っていい? ひとりになるの、怖いよ」

「親父がオレを? ……いいよ。行こう」

 疑問ばかりが心に膨れ上がる中、グースは得たいの知れない何かを抱きつつも、不安がるリシスの手を引

いて自分の部屋を後にした。

 

 今だけ女人禁制だと言われて渋々、外で待つことになったリシスに「大丈夫だよ」と慰めの言葉をかけて、

風士賊の長でもある父親の部屋に神妙な面持ちで入ったグースは、その長と、脇に彫り士の重鎮が控えて

いるのを見て、瞬時に事の成り行きを理解した。

 彫り士がいることと、自分がこの場に呼ばれたことの意味はただひとつ。 

「その顔、既に分かっているのだな? なら、話は早い。左腕を出せ。お前を風士賊の男として認めてやる」

「待って下さい。突然すぎます」

 とうとう”竜の証”を与えられる時が来たのだ。が、なぜかグースはひどく慌てた。

「兄者は? 兄さんはどうなるんですか?」
 
「そのことなら考えてある。いいから、ここに座りなさい」

 有無を言わせない父親の言動にグースは逆らう動機もなく、設けられた木製の椅子に素直に腰掛けた。

 隣の椅子に座った彫り士が黙ったまま台の上に道具を並べると、グースの腕に針で色を刺し始めた。

 ちくりとした鋭い痛みが、律動を刻むように続いていく。

 成人の儀式ともいえるその様子を眺めながら、険しい顔をした風士の長が口を開いた。

「あれは出来の悪い兄かもしれないが、風士賊としての誇りは強く、志も高い。グース、お前は生まれこそ正

統ではないが、誰もが認める優れた竜使いに成長した。そのことでお前たちがいがみ合っていることも承知し

ている。そこでわしがいちばん恐れたのは、仲間に亀裂と確執が生まれることだ。この隔離された世界で

賊間に衝突が生じるのは何より恐ろしい。今はまだ兄弟の間で留まっているが、お前が確実に力を身に付け

ていく器だと皆が見抜いているからこそ、わしは予期も危惧もしている。いずれ、まわりはお前とマディオンを

めぐって、二分するだろう。その前にぜひ手を打ちたいのだ。わしの言いたいことが分かるか?」

 長の問いに、グースは黙したまま頷いた。

「つまりだ。わしはお前を一人前と認める代わりに、この集落から出ることを願っている。争いを起こさずに互い

を守り、双方の道を閉ざさない為の最善の方法を考えた結果だ。マディオンを、立ててやってはくれまいか」

 厳しい宣告にもかかわらず、グースは何も感じないほどに冷静な気持ちで父の言葉を受け止めていた。

 望まない展開がかえって落ち着かせたのか。
        
 ・  ・
「……オレに、大人になれということですか……」

「そうだ。マディオンではなくなぜ自分なのだとお前は疑問に思うだろうが……グース、お前は賢い。灰竜のよ

うにもっと大きく広い世界を見ることの出来る”目”を持っている。こんな狭い世界を治めるだけの男ではないこ

とを、わしが認めよう。恨むならマディオンではなく、わしを恨むがいい」

 話はそこまでだった。会話はそれ以上交わされることはなく、重苦しい空気と沈黙が漂うだけとなっていた。

 その間も、彫り士の手は休むことなく証を刻み続け、それと分かる程に竜の紋様が浮かび始めていた。

 言わばこの儀式は餞別。真に認められたというにはあまりにひどい結末だ。

 こんな形で認められた自分に、集落を出ねばならない自分に、名誉の証が何の意味を持つだろう。

 足枷は思わぬところで外れたが、それと一緒に誇りも失われてしまった。

 まるで、牢屋にいるラングリーアのようだ。剣を持たない彼が、意味がないと言っていたのと同じ。
 
(守る? 何がオレを守ってくれるんだよ。恨む? オレが誰も恨めないように仕組んでるじゃないか)

 グースはこの場にいることの違和感を覚えて、不意に彫り士の手を払って立ち上がると、振り返りもせずに

部屋を出た。

 出迎えたのは、リシスの心配そうな顔だった。

 グースは何も言わずに彼女の手を取り、急ぎ早に歩いて通路の分岐まで来ると、リシスの両肩を掴んで真

正面から目を見つめた。

「突然だけど、オレはここを出る。リシス、長い間ありがとな。お別れだ」

「お別れって……何を言ってるの? 出るってどういうこと?」

「自由になったんだ。オレは竜のことも下界のこともすべて見てきて知ってるつもりになってた。でもさ、実は空

と竜以外、何も知らないんじゃないかって思えてきたんだ。だから、ここを出る」

自由って……長に、出て行けって言われたの? そうなのね?」

 ようやく理解し始めたリシスに対して、グースはゆっくりと首を振った。

「なんでグースなの? わたし、長に文句を言ってくる。
ここを出るべきなのはマディオンのほうでしょ!」

「やめろよ、みっともないから。出て行くと思うのはさすがに癪なんだ。リシスだけでも素直に見送ってくれよ」

「グースが出て行くなんて、そんなの理不尽よ……」

 目にいっぱい涙を溜めて、しまいには顔を覆ってしまったリシスの肩をグースはそっと引き寄せた。

「たまにはほんとに風の流れに任せてみるのもいいだろ。オレはそれを許されたんだ」

「私も行きたい」

「遊びじゃないんだぞ。ここを出たら、今まで積み上げてきたものなんて何一つ役に立たなくなる」

「それでも……」
 
 グースは人差し指を立てた。言い掛けたリシスがそれと同時に口を噤


「ヴァルで下山したあと、
あいつにはここへ帰るように言うから、これからはリシスが面倒を見てやってくれ。ヴァル

はリシ スにもよく懐いてるから大丈夫だ。オレは、自分で自分を認められるくらい大きくなれた時に、戻ってこようと

思 う。必ず迎えに来る。待っててくれ」



「これ、あんたに返す。ただし、ここから解放する代わりにオレも連れていけ。嫌だと言われてもついてくぞ」

 突然、エルフの剣を檻越しに突き出されて、ラングリーアは困惑した。

「私と戦にでも行きたいというのか? 死にに行くようなものだぞ?」

「前のオレならもう死んだよ」
 
 グースは自分の左腕の竜へ視線を落とした。
 
 黒と青を使った鮮やかな竜の刺青は、その翼を掲げる直前で終わりを告げていた。

 この竜のように翼は失くしたかもしれない。

 しかし、それ以上の自由をグースはこれから自分の目で知ろうとしていた。