森の小道へ 

  リナは、森の小道を歩いていた。
 
  両脇には、自分の背丈よりも遥かに高い樹がそそり立ち、頭上のほうで

 重なり合った枝々の間からは、朝の光が幾つもの薄い柱を地面に降ろしていた。

  ふと、何かを思い立って足を止めると、まるで過去を辿るように、

 いま自分が歩いてきた道を振り返ってみた。

  そこには、道……。

  地面に規則正しく窪んだ自分の足跡が、リナの目には哀しく映る。

  こんなにも、たくさんの木々に囲まれているというのに。

  こんなにも、明るい光が溢れているというのに。

 (そうね。今は誰もいないんだわ)

  リナは少し肩を竦めた。

  いるはずもない姿を求めてしまう自分がなんだかみじめで、暖かい陽気に包まれながらも、

 冷たい孤独に淋しさを感じた。

  ここに来れば、またしばらくは泣き顔で過ごすことになると分かっていたのに……。 

  なぜ、またこの森に来てしまったのかしら?
  
  どうして、ここに来ることを選んでしまったのかしら? 

  リナ自身にもよくは分からなかった。そうして、再び森に来てしまう自分に、少し驚きも感じていた。

  あの日から、近づくことさえ嫌だった、思い出したくもなかった森へ……



 (あら? あれは……)

  小道を再び歩き出したリナは、木々の間に見え隠れする小さな家に気がついた。

  家というよりも、小屋という感じの平屋で、南側の側面には、小さな窓が覗いている。

 (……家なんて前にはなかったわ) 

  何となく不愉快に思いながらも、リナは不思議なものを感じて、心惹かれるままに、

 小走りに家を目指した。

  どうやら、リナが森に来なかったひと月半の間に建てられたものらしい。

  木と木の間にひっそりと、まるでお互いが寄り添うようにして、

 その家は小道の脇に佇んでいた。

  扉の中央には<ガラスの店・ミーサ>と、白い文字で書かれた木の看板が掛かっている。

 (……ガラスの店? ミーサ?)

  リナは胸の内でそっと呟き、一瞬、ためらいはしたものの、中はどうなっているんだろう

 という好奇心に押されて、ノブに描けた手をゆっくりと左にひねった。

  そのまま手前に引いて、扉をそっと開いてみる。


  鍵もかかってはおらず、びっくりするほど簡単に軽々と戸は開かれた。

  瞬間……。

  リナの目に飛び込んできたのは、室内を埋め尽くすほどの、たくさんの猫たちだった。

  見上げるほど高い書棚の上に、その棚の中に、机や小さな丸テーブルの上に、
 
 出窓のところに、花咲く植木鉢の陰に。

  寝ている者、澄ましている者、怒っている者、笑っている者、あくびをしている者。

  こげ茶と黒のまだら模様の子や、茶虎の子、白に、茶色に、真っ黒の子に、グレーに。

  小さな猫もいれば、大きな猫も、スマートな猫もいれば、太った猫もいる。

  青い目を丸くして、黄色い目を光らせて、黒い目を細めて。

 (……なんてたくさんの猫たち) 

  感激して中に入ると、リナはぐるりと室内を見まわした。と、今ようやくのように、

 猫たちの騒々しいくらいの賑やかな声が聞こえてきた。

 (何を話しているのかしら?)

 「やあ、いらっしゃい」 

  ふいに、猫たちのものとは違う優しげな声が聞こえてきた。

  突然の声に、心を引き戻されたリナは、楽しい夢の途中で眠りから起こされたように、

  ふと、現実に意識を戻した。
 
   同時に、猫たちの声もぴたりと止む。
 
   夢うつつの気分も直ぐにどこかへ行ってしまい、リナは声の主を探して、

  きょろきょろと視線を動かした。そして、ぴたりと、その瞳が一点に止まる。

   奥にも部屋があるのか、その扉を背にして、ひとりの青年がリナに向かって微笑んでいる。

   すらりと背が高く、痩せているのにきゃしゃな感じはせず、どこか不思議な気配のする
  
  その人は、夜の色と同じ黒い燕尾服を着ていた。

  「気に入った物があったら差し上げますよ。どうぞ、遠慮なく申し付けて下さい」

   丁寧すぎるくらいの青年の言葉に、リナははっとして、もう一度、部屋の中を見まわした。

   さっきまで生きていたはずの猫たちが、みんなガラス細工に変わっている。

  (生きているように見えただけ?)
 
   訳が分からず、半ばぼんやりとしたまま棚に近づくと、両足を揃えて小首を傾げている

  黒猫を何気なく見つめた。

  「それがいい?」
 
  「………!!」 

   リナはぎょっとして隣を見上げた。いつの間に傍へ来ていたのか、まったく気配すらも

  感じさせずに、燕尾服の青年が身を屈めてリナの顔を覗き込んでいる。

  目と目が合うと、青年は微笑んで見せた。

  「気に入ってくれた?」

  「……くれるの?」

  「ええ、もちろん。でも、ただという訳にはいかないよ? ここは僕のお店だからね」

   そのひと言にはっとして、リナは思わず服やスカートのポケットをあちこち探った。

   青年はその仕草を見て取ると、カラカラと笑って、棚の黒猫を手に取った。

  「さっ、両手を出してごらん」

   そう言って、時の止まった小さな生き物をリナの手におさめる。

   驚いて見上げるリナに、青年はにっこりと再び笑って、軽く頷いて見せた。

  「特別だよ。僕からのプレゼントにしよう」

   リナは、手の中の黒猫と燕尾服の青年とを交互に見てから、「ありがとう」と応えた。

  「……大事にするわ」
 
  「それはありがたい。そうしてもらえると、僕も嬉しいよ」 

   満面の笑顔を向ける青年につられて、同じように微笑んだリナは、

  ふと顔を逸らして笑顔を引っ込めると、また手の中の黒猫を見つめた。
 
  そうして、また青年を見上げる。
 
  「……ひとつだけ聞きたいことがあるの」 

  「僕に? 何かな?」

   身を屈めたまま、青年は耳を傾けた。

  「外に看板があったわ。<ガラスの店・ミーサ>って。ミーサってどういう意味?」

   段々と高鳴ってくる胸の鼓動を、逸る気持ちを押さえながら、リナはわざととぼけた。

  (私は知ってる。でも、コワイ……聞きたい、けど、知りたくない)

   だけど、目の前の青年の口からリナは答えが聞きたかった。

   ドキドキしているその横で、燕尾服の青年は微笑みを絶やさずに、

  少しの間を置いてからそっと切り出した。

  「もう、ひと月以上も前になります。僕を……そう呼んでくれていた少女がいました。

  ミーサ、とね」

   リナの瞳の奥をじっと見つめたまま、青年は風が囁くような静かな声で言った。

   青年の黒い瞳に見つめられている内に、いつの間にかドキドキを忘れてしまったリナは、

  呪文のように「ミーサ」と呟いてから、小さな手の中のさらに小さな黒猫へと視線を落とした。

  「わたしもね、ミーサを知っているの。ミーサとは、この森へよく遊びに来たわ。

  初めて出会ったのも、この森だった」
 
   本当に呪文だったのかもしれない。胸の奥が暖かくなってゆくのを感じながら、

  リナは青年と同じように優しい穏やかな気持ちで言った。

   言わば、秘密を明かしているのと同じなのに、何のためらいもなく話している自分に

  驚きを感じながらも、正直に話さなくてはいけないような気がしていた。

   それからまた、リナは青年に微笑んで見せた。少し淋しげなのが自分にも分かる。

  「ミーサはね、わたしが飼っていた猫なの。このガラスの猫と……

  おじさんの着ている服と同じ色の……」

  「そう。では、僕たちはまたここで再会を果たした訳ですね、リナ」

   変わらない笑顔でそう言う青年の顔と、ミーサの顔がリナの中で重なり、次の瞬間、

  自分にもよく分からない涙が目に溢れてきた。

   突然、泣き出したリナを見て、青年はおやおやというような顔をし、

  両膝を折って床につくと、肩にそっと手を置いた。

  「さあ、もう泣くのはおよしなさい。いつまでも悲しんでいては、何も始まりませんよ?」

  「でも……」

  「リナ、僕のことは早く忘れておしまいなさい。ね? そのほうがいいのですよ」

  「どうして? お父さんとお母さんも同じことを言ってたわ。どうしてなの?

  わたしは忘れたくないのに……ううん、忘れられないの」

  「困りましたね……」

   青年は本当に困ったというようにまゆをひそめて、リナの頬に伝う涙を指でそっと拭いた。

  「では、こうしましょう。忘れることが出来ないのなら、いっそ、思い出になさい。

  どんなに辛いことでも、ずっと後になってから自分にとって良い思い出に代わることもあるはずです。

  そうすれば、僕はリナの心の中でずっと生き続けることが出来る。

  リナがそこで止まっている限り、僕は死んだままなんだよ」  

  「本当? 本当に……そうなの?」

  「ええ、ごらんなさい。ここに居る猫たちは、リナが僕にくれた思い出です。

  どんなに小さなことでも、一瞬一秒が思い出に変わるのです。時は待ってはくれません。
   
  ……でもね、リナ、思い出や時は、形に残らないからこそ価値があるのだと、

  僕は思うのですよ」
 
   青年の話を聞きながら再び部屋の中を見まわしていたリナは、段々と色を失くし、

  形を失っていくガラスの猫たちに、はっと息を呑んだ。

   その内、棚も机も、小屋ごと形が薄れて透明になってゆき、それらがすっかり消えてなくなると、

  まわりには緑の木々が、森が広がっていた。 

   いつの間にか、青年の姿も消えている。

   ふと思い立って、手の上の黒猫に視線を向けると、途端に、パリンと乾いた音をたてて

  粉々に砕け散り、キラキラと木漏れ日に光りながら、地面に落ちる寸前に

  きれいに消えてなくなった。
 
  「過去は振り返るだけで、決して後戻りは出来ない。でもね、リナ、思い出は心に残るんだよ」

  「……そうね、ミーサ。わたし、行くわ。もう平気よ」

   ミーサの囁きが胸の中に響き、リナは森の小道を歩き出した。 


                                              【おわり】

  



   大人の
ための童話…という感じで、数年前に書いたものです。

   実は、私自身の思い出から創った話で……

   そもそも、飼い猫が死んだ時に泣いてあげられなかった、というところからきてます。

   悲しくなかった、という訳ではなくて、死を予感したせいで、先に心の準備をして

   しまった子供の頃の私が存在するんです。

   後悔ではないですけど、涙だけが悲しみの表現なのかな、と色々思うことがあって……

   そんなところから、この話が生まれました。

   感想など聞かせて頂けたら光栄です。と、読んで下さった方、感謝です。
                                       

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