ブリガンディーネ-----1




 『人が清い水から生まれた存在ならば、その者は血の海から生まれたという』
   
                                       クロア・クロネ著
 




 長い黒髪を高く結い上げた少女が、右足を踏み込んで、細身の剣を袈裟懸けに一閃した。

 剣といっても切れる代物ではない。本物と変わらない形はしているが、鍛冶に失敗した刃先のないただの鉄の棒だ。

 しかし、当たれば無傷では済まないのも確かだった。

 少女と同じ色の髪をした少年が、自分に振られたその一撃を軽々と剣で弾き返した。

 鋭い金属音が、雲の広がり始めた空に吸い込まれていく。

 少女・ブリジットは透かさず、空を切って、下から剣を振り上げた。

「速い!」

 少年はにやりと不敵に笑って、ブリジットの剣を同じ鉄の棒で逆手に受け止めた。
 
 一瞬、そこでふたりの動きが止まったが、まばたきをする間もなく、ブリジットが再び仕掛けた。

 逆手の剣をそのまま力まかせに撥ね退けると、少女は黒髪を乱しながら、隙の出来た少年の胴に向かって、

剣を真横に一閃した。

 だが、少年・ティールの動きも素早かった。

 ブリジットの一閃を先読みしていたかのように、退けられた反動を利用して身を翻すと、下段から斜めに剣を

振り上げて、少女の一振りを薙ぎ払った。

「あ!」

 しまった、という意味の声が漏れた。ブリジットの手から剣が離れ、弧を描いて地に落ちると、勢いを失わないまま

石畳の路面を滑っていった。

 ティールは勝ったと言わんばかりに振り上げた剣を斜めに下ろすと、ある一定の角度でその手を寸止めした。

 わずか、ブリジットの左肩に触れるか触れないかのところで、鉄の棒は止まっていた。

「惜しかったね」

 剣の凄みとはうらはらに、ティールは優しさを込めてそう言うと、慣れた手つきで鉄の棒を腰の革帯に差し込んだ。

 それが合図だったかのように、それまで体を強張らせていたブリジットが、ほうと息をついて、緊張を解いた。

「また負けね」

「でも、剣筋は格段に良くなってるよ。日ごとに息も切れなくなってるし、上達してる証拠だね。

これで左手が使えないなんて、とても思えないよ」

 少年はどこまでも明るく言った。
                                            
むご
 ブリジットの上腕から下に伸びる左手はない。彼女がまだ子供だった頃、惨い経緯があって失われたのだ。

 現在では、腕のいい医師と医術の施しのおかげで義手を付けているのだが、袖の長い衣服を着ていれば、

見た目にはそれと分からなかった。

  剣技を覚えるようになったのはその過去の出来事も影響しているが、この国を中心に近隣諸国でも

女性が自ら武器を持つことは珍しい時代ではなくなっていた。

「あとは何が足りない?」

 乱れた髪を後ろに払って、ブリジットは問いかけた。

「足りないもの? ……そうだな」

 ティールはふと、自分が弾いた剣の行方を何気なく見つめた。

 街中から少し離れた場所に位置するここは、普段ならば人々が束の間の時を憩う広場なのだが、今にも泣き出しそうな

空のせいで、通り掛かる人影すらも見えなかった。その片隅に、ブリジットの剣が落ちている。

 「やみくもに剣を力まかせに振っているだけでは、当たらないし、かすりもしない。相手の出方を見るのはもちろんだけど、

自分の動きも常に頭に入れて、先を読む戦い方をしないとね。機転と慣れだよ、今いちばん必要なのは」

「慣れ……うん、分かった、ありがとう」

 素直に頷いたつもりだったが、ブリジットの口元にはなぜか含み笑いが浮かんでいた。

 それを見て、ティールが少し眉をひそめた。

「なんだよ。人がせっかく親切に講義してやってるのに。その笑いはなに?」

「ごめん、つい。……立派になったんだなって思っただけ」

 ブリジットはくすりと笑いながらも、黒髪の少年を頼もしそうに見つめた。

 最年少の十五歳で王宮の騎士団に入ったティールは、正騎士の一員として仕官し、現在では騎士団長のシェリアンを

補佐するまでに成長していた。

 自分には自分のやり方がある、家族を守るためにももっと大きなものを守りたいんだ、と騎士団に入ることを

父親に懇願していた少年の強い瞳と志は、あの時から今も変わっていない。

「もう少しで二年だよ」

「出世したよね」

「うん、みんなのお陰だよ」

 まだ幼さの残る屈託のない笑顔でティールは答えた。

 ブリジットには、それが何よりも落ち着くかけがえのないものだった。

「さて、と。もう一度、手合わせする?」

「ちょっと待って」

 ティールが再び柄に手を掛けたのを制して、ブリジットは彼の後方に意識を向けた。

「誰か来る」

 その言葉を聞いて、ティールも振り返った。

 今しも道の向こうから姿を現したのは、息せき切って走ってくる騎士団の制服を着た若者だった。

 けわしい表情に焦るような色が見える。

「シャクスだ! どうしたんだ?」

 一変、ただならない様子に不穏な空気が流れた。

「ティール、探したぞ。ここじゃないかって聞いて」

 シャクスと呼ばれた騎士団の若者は、息を整えてごくりと唾を飲み込むと、ひと息も待たずに話し出した。

「レリックだ。街中に三匹も出たんだ」

「三匹も! 見まわりの衛兵は?」

 途端に、ティールの態度が厳しいものになった。
                                  

「近くにいた衛兵はみんな殺られた。かなり手強いらしくて、戦える者は直ぐに駆けつけろって。

本当か嘘か知らないが、エンシェントもいたらしい」

「エンシェント!」

 ティールとブリジットの叫びが重なり、どちらからともなく顔を見合わせた。

 天はこの事を予感していたのか。厚く垂れ込めた雲の下、無言で交わされたふたりの視線に緊張が走った。

「姉さん、実戦だよ」

 言うよりも速く、ティールの足は既に駆け出す一歩手前だった。




 誰よりも強い正義感の持ち主だった。

 その強さがまさか仇になろうとは、誰が想像していただろう。

 ティールが死んだ。

 そのことを聞かされた時は、すべてが終わったとブリジットは思った。

 幼少の頃、目の前で母親をレリックに殺され、命を失う代わりに左腕を奪われた時よりも、さらに残酷で絶望的な現実に、

少女は体の震えを抑えることが出来なかった。

 慰問に訪れた騎士団長のシェリアンにブリジットは激しく詰め寄り、怒りと悲しみを彼にぶつけることで、

見失いそうになる自分を繋ぎとめた。誰かを責めたところで、ティールが戻ってくるはずもないと知りながら。

 これがレリックやエンシェント相手であれば、鉄の棒ではなく、迷わず真剣を抜いていただろう。

 あの時の”痛み”が、現在のブリジットを何よりも強いものにしたのは間違いなかった。

 それから、三年----。

 時は無情に過ぎていた。                −続−



 
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