ブリガンディーネ-----2




「彼女の小さな体のことを考えたら、これ以上の苦痛は体力を奪うだけ。精神的にも辛いものになります。決断

して下さい、ガラト。この子の身になったら、私はもう少しも待てませんよ」
 
カーテン                           ベット
 窓幕も閉め切られた薄暗い部屋の中、寝台に寝かされた幼い少女が、額に脂汗を浮かべて苦しみに呻いて

いた。その左腕には幾えにも布が巻かれ、白い布地には血が滲んでいる。

 ここへ運び込まれてからもうまる一日、少女は意識がはっきりしないまま、高熱に浮かされ続けている状態

だった。精神を安定させる薬を飲ませてはみたが、傷を受けた時の恐怖が少女をからめ取っていて、期待した

ほどの効果も得られずにいた。
                                     
ランタン
 幼く小さな命と呼応するかのように、部屋の片隅に置かれた角灯のともしびが隙間風に揺らめいた。

「切断……しますか?」

 眼鏡を掛けたざんばら髪の男が、少女の足元に立っているガラトに向けて、静かな、けれど厳しい視線を送っ

た。 
         
がいとう
 そのガラトは、外套も脱がずに、部屋に入ってきたままの格好でじっと立ち尽くしていた。
 
 眉間に深いしわを刻み、苦渋に満ちた表情で自分の娘を見つめている。返答に迷っている様子ではない。

 目に見える現実、下さなければいけない決断、それを承知してるからこそ声が出ないのだった。

 ざんばら髪の男・クロアは、二回ほどゆっくりまばたきをしてから、その目を少女に落とした。

「むやみに時を待っても、この状態ではもう……悪くはなっても良くはならないです」

「酷だな」

 ぽつりと言い、ガラトは目を閉じて、眉間に手を当てた。

「可哀想なことを……私がもっと早く気がついていれば……」

「貴方らしくもないですね。ご自分を責めている時ではないですよ」

 一瞬、風が流れた。

 角灯の火の揺らめきがクロアの眼鏡に反射すると、その直後、ガラトが意を決したように大きく息をついた。

「娘のことは任せる。君を信じよう」

「ありがとうございます」

 クロアが軽く一礼すると、ガラトもわずかに頷き、やりきれない思いを残しつつも、静かに部屋を後にした。

 誰にとっても辛い選択だった。しかし、今いちばん辛く苦しいのは、その腕に一生ついてまわるだろう傷を負っ

た少女ブリジットに他ならない。複雑に引きちぎられているため、その部分をきれいに切断したほうがいい、

というクロアの宣告は、ガラト自身にも胸の痛みを与えるものだった。

 そのほうが、傷口の感染症も壊死も防げるうえに、治りも早く、命の危険性もなくなるだろうと。

 確かにこれで危険な道は脱したかもしれないが、ガラトはブリジットの父親として思うのだった。

 この先、その身に背負った傷と共に生きていくことのほうが、どれだけ険しいだろう、と。

 部屋を出たガラトの目に、扉の脇で小さくうずくまっている少年の姿が写った。

 膝を抱えたその腕に顔をうずめて、時おり心細げに鼻をすすっている。

 ガラトの気配を感じて顔を上げると、少年は泣きはらした目をゆっくりと向けてきた。

「……お父さん……」

「待たせた、ティール。……悪いな」

「……お姉ちゃんは? 死んじゃうの?」

 可哀想なほどに弱々しい声だった。少年なりに心を痛めているのは、その様子からも見て取れた。

「お父さん、僕いやだ。お姉ちゃんまでいなくなるのはやだよ」

 また泣き出しそうになる少年の率直すぎるその言葉に、ガラトは苦笑いを浮かべるしかなかった。

「死にはしないさ。少し、辛い思いをするだけだ」

 ティールの目の前に歩みを寄せて、同じようにしゃがみこんだガラトは、着ている外套を後ろへ払って、怯えて

いる息子にそっと手を差し出した。

 少し、というのは語弊があるが、この子にはまだ分かるまい、と思いながら。

 恐怖と淋しさを父親の大きな手に預けるように、少年は手を重ねてきた。

「これからはティ−ル、お前がブリジットを守ってやってくれないか? お前のほうが弟だが、その前にティール

 は男の子だ。男として、姉さんを守ってやれるな?」

「……僕が? お姉ちゃんを守るの?」

「そうだ。出来るか?」

「……うん、分かった」

 ガラトの真剣な面持ちから何かを感じ取ったのか、少年は潤んだ瞳ながらも力強く頷いて見せた。

「よし、いい子だ。ブリジットはもう大丈夫だから、何も心配はいらない。クロアもついている。もちろん、父さんも

戦う。ティールとブリジットは、私が守ろう」

 そう言ってから、ガラトは息子の手を強く握り、互いに立ち上がって歩き出した。




 レリックに襲われて以来、クロアの屋敷から外へ出ることを拒んでいたブリジットが、精神的にもゆとりを持て

るまでに回復するには、半年以上の時間を要した。

 その間、弟のティールはひたむきに姉を思いやり、ガラトを伴って毎日のように屋敷を訪ねては、ブリジットを

励まし続けた。

 クロアの考案で、切断した左腕に義手を取り付けることになると、それまで塞ぎがちだったブリジットも生きる

気力を取り戻し、その視野は再び外の世界へと向かい始めた。

「僕は逃げるほうが怖いんだ。お姉ちゃんも一緒に歩こうよ」

 ティールはそう言って、ブリジットの義手の左手を引いて、外へと連れ出した。

 義手であることを奇異な目で見る者もいたが、ブリジットの傍らにはいつもティールの存在があり、姉をからか

うような者がいれば、自分よりも年上であろうと、ものともせずに蹴散らした。

 彼がいたからこそ、ブリジットは自分の身の上もまわりの視線も恐れることはなくなっていた。守られてばかり

もいられないと、自ら頼み込んで剣を手に取るようにまでなったのも、ティールが傍にいたからだ。

「姉さん、その調子だよ」

 どこまでも明るいティールの笑顔を、ブリジットは振り下ろした鎚と共に頭の中から打ち消した。

 左足で押さえた鉄の棒を、右手の鎚で無心に叩き続ける。

 鋭い金属音が鍛冶場に響く中、再び沸いてこようとする記憶の断片を、ブリジットは忌むべきもののように鎚を

振るい、鉄からこぼれる火花と一緒に消し去った。

 今日はやけにティールの影がちらつく。

 そう思った時、ブリジットを呼ぶ男の声がその手と思考を止めさせた。

「ブリジット、やめないか」

 その声にはあきらかに怒気が含まれていた。

 鍛冶場の奥の古い炉で同じように鉄を打っていたはずだが、いつの間にか目の前に立っている。

 父親のガラトだ。

 どうやら、何度か名前を呼ばれていたらしいが、気づくのが遅かったらしい。

 奥の炉の脇には、弟子のサージが面目なさそうに何か目配りしている。

「俺は親方の手伝いをしてたんだから、何も言えないだろう?」
 
 とでも言っているようだ。

 ブリジットがそのままの姿勢で目だけを上げると、眉間にしわを寄せたガラトの顔に出くわした。
  
 ああ、本当だ、と納得する。声からも薄々感じたことだが、怒っているのは明白のようだ。

「自分でも気がついているんだったら、もうやめなさい。そんな気持ちで取り組んでいたら、剣に邪念が

移るだろう?」

 ブリジットの鍛冶の音を聞いて、その心の乱れを読み取ったかのような口振りだった。

 いや、実際、ガラトにはすべてお見通しのようである。

「少し、外へ行って頭を冷やしてきたらどうだ?」

 厳しくはないが穏やかでもないガラトの態度に、ブリジットは反論のしようもなかった。

 黙って脇の道具台に鎚を置くと、火花避けの革の前掛けを脱ぎ、水の入った筒状の容器に今まで打っていた

鉄を突き刺した。たちまち、けたたましい音とともに煙のような蒸気が立ちのぼる。

 厚手の革手袋を歯で噛んで脱ぎ捨てると、ブリジットは脇に置いておいた黒い鞘の剣を手に取り、すっくと
         
ベルト     
立ち上がった。革帯の金具にその剣の留め金を引っ掛け、頭部でまとめていた髪を解く。さらり、と長い黒髪が

背中を覆った。

 それを見届けると、ガラトも何も言わずに仕事場へ戻っていった。

 はっとしたようにサージが慌てて作業の続きを始めるのを見てから、ブリジットも外に続く扉へと向かった。




「ははは……さては、その顔はまたガラトを怒らせたな?」

「ご明察。悪い?」
 
「いいや。上がりなさい。お茶をご馳走しよう」

 笑ってブリジットを迎えてくれたのは、いつもざんばら髪のクロアだった。

 少女から大人になったブリジットとは違い、クロアの容姿は十二年前からあまり変わっていない。しいて言え

ば、口元と目元のしわが目立つようになったといったところか。

 あの時以来、ブリジットが最も落ち着ける場所になっていたのが、クロアの屋敷だった。

 今日のように父親と当たった日、苛立ちや淋しさを感じた時、決まってここへ来るのが習慣になっていた。

「あまりガラトを困らせるな。ただでさえお互い気難しいのだから、収拾がつかないだろう」

「親父どのは私が邪魔なのよ」

 前を行くクロアの後について階段を上りながら、ブリジットは不貞腐れた。 

「そんなことを言うものではないな。剣と鍛冶の腕は器用だが、ことさら自分に関しては不器用な男だからね。

ああ見えても、ブリジットのことを理解しようと苦労してるのさ」

「そうは見えないけど」

「だから下手なのさ。何時だったかな……ああ、これは内緒だが、母親の代わりとはどいうものだ? と私に聞

きに来たことがあったよ。メディナの代わりをしようとガラトなりに努力してたよ」

「親父どのが?」 

「そうさ」

 言い切るクロアの言葉から、いつも見知っている堅物な父親の姿を想像して、ブリジットは思わず吹き出しそ

うになった。

 その口を慌てて押さえる。

 階段を上りきったクロアが振り返って、ブリジットの代わりにからからと笑った。 


                                                   −続−



 
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