ブリガンディーネ-----3
もう少しで四十歳になろうかという独り身の男の持ち物にしては小奇麗な白い陶器の器に、クロアは手際よく
香草茶を注ぎ入れながら、ブリジットに席に着くように促した。
テーブル
広くも狭くもない部屋の中央に置かれた木製の卓子について、ひとまずほっとしたブリジットは、ありがとうと
小さく礼を述べてから、差し出された器を手に取った。
取っ手の付いた器は両手で包み込める程の大きさで、いっさい模様も描き込まれていない質素なものだった。
こうゆ
初秋の落ちゆく葉のような薄い褐色の香湯が器の中で揺らめき、その見た目とはうらはらな良い香りがする。
安らぐようなその香りに誘われてそっと口に運ぶと、ほのかな甘みと苦味が喉を通り過ぎた。
ほど
ゆっくりと胸が暖かくなり、堅く結ばれていた紐が解けていくように、ブリジットは心を解放し、唇を開いた。
「今日はなんだか、ティールのことが頭から離れなくて……」
「何か迷いでも?」
向かいの椅子に腰掛けるなり、クロアは率直に切り込んだ。
「心に迷いがあるから、過去の記憶が邪魔をするのだろう。特に君の場合はね」
「迷い? ……そうかな」
「この頃、騎士団長どのがよく来るそうじゃないか」
「知ってたの?!」
誤魔化しついでに持ち掛けた器の底が卓子にぶつかり、ブリジットの気持ち同様に慌てた音をたてた。
クロアの前では素直に態度に出てしまう。
そのクロアは言い当てたことを誇るでもなく、変わらない様子で言葉を続けた。
「シェリアンなら何の問題もないだろうね。そろそろ落ち着く気になったのかい?」
「まさか!」
「悪い話じゃないと思うが?」
「冗談はやめて下さい。そんな話、出てもいないんだから」
半ば本気で怒ってみせるブリジットに対し、クロアは少し悪戯っぽく笑った。
「いや、ごめん。悪気はないんだ」
まだ笑みを含んでいるクロアに冷ややかな視線を向けつつ、ブリジットはあからさまにため息をついた。
「あの人は……ティールのことで責任を感じてるだけ。ただ、それだけ」
「ガラトは安心するんじゃないのか?」
真面目にそう聞かれて、一瞬、まだ言うつもりなのかと目を吊り上げたブリジットだったが、黙したままゆっくり
と首を横に振った。
「親父どのは何か考えてるのかもしれないけど……そんな気持ちにはなれないし、私には考えられない」
「左腕のことを気にしてるのなら、それは忘れるべきだよ。君自身が既にそれは当たり前のことだと受け止めて
るんだ。臆することはない」
眼鏡の中央を少し押し上げて、クロアはざんばらの前髪を無造作に払った。
「それに今の世の中、少しくらいの悲しみや苦しみは誰もが背負って生きてるものさ」
「だからこそ、私は剣を持つことを選んだんです」
そう言い切るブリジットの瞳は、どこまでも鋭かった。
重く暗い現実から目を背けるよりも、逆に逃れようのない現実に身を置くことのほうが、自分自身を強く保って
いられる。だからこそ、あえてティールにもっとも近い場所を自分の生きる道としたのだ。
「君をそこまで駆り立てるものは何だろうね。私は常々不思議に思っているんだが。……危険を承知で、これか
ら先もずっとレリックに剣を振るうつもりなのかい? ……まさか、エンシェントを?」
クロアの問い掛ける視線が、ブリジットの頷きと重なった。
エンシェント−古き魂−は不死身だと言われている。
むかしびと
あくまで語り継がれてきた昔人たちの言葉にすぎないが、かの者が一度たりとも討伐された、あるいは滅した
という記述はどこにも存在していない。独りなのか、複数なのか、それすらも未だ分かってはいない。
確かめようがないのである。何故なら、刃を突き立てた瞬間に、その肉体から、血や皮膚から、また新たな
レリックが生み落とされるという恐ろしいまでの常識が存在するからだ。どんな剣を持ってしても、レリックを生ま
ずにエンシェントの命を削ることは、歴史上、一度も叶ったことがないのである。
それ以上に人々が恐怖するのは、エンシェントに立ち向かって生きていられた者がひとりもいないということ
だ。”魂を喰らう者”という異名を持つように、エンシェントの持っている魔剣で切られた人間は必ず命を落とす。
それがたとえ致命傷でなくてもだ。そうしてかの者は、相手の魂、存在そのものを奪い、姿形を変えて幾百年
の時を生き延びてきたのである。
何のために、なぜ殺戮が繰り返されるのか、誰にも知られず、誰もまだ知らず。
「エンシェントを倒す方法を探そうって? とてつもない話だ」
「出来ればね。可能かどうかも分からない。私だって、とてつもないことだと思います。でも、立ち止まるほうが私
には怖いんです。腕を失った代わりにレリックに憑りつかれたんだって噂する人もいるけど、誰が何と言おうと私
は止まらない。止まりたくない」
ブリジットのその言葉を、クロアは否定も肯定もすることはなかった。
ただ、内心は納得する思いでいた。ブリジットの志もまた、ガラトやティールに似てひと筋なのだ。
「親父どのには黙ってて。言う時が来たら、ちゃんと自分の口で言うつもりだから」
器を握る右手に力が入っているのを自分自身感じながら、ブリジットは俄かに立ち上がって窓辺に行くと、
風に揺れる外の木々を見つめた。
ぼ ち
クロアの屋敷の隣には建国前から存在する古い森があり、一部は木を切り倒して、墓地として使われていた。
医師をする傍ら、クロアが墓地の管理もしているのだが、まわりは腰の丈ほどの木製の柵で囲われており、
丁寧に整備されていた。ブリジットの立っている窓辺からは見えないが、この墓地の一角には、弟のティールと
と わ
母親のメディナも共に墓石の下で永遠の眠りについている。
空が灰色の雲に覆われているせいか、森はいつもよりも暗く鬱蒼と感じられ、不気味な雰囲気を醸し出してい
た。このどこかにレリックが潜んでいたとしても、不思議はないくらい……。
ブリジットはふと、何かに誘われるように墓石のひとつひとつを目で追い始めた。
大小、色、形、人がそれぞれ異なって生まれてくるように、墓石も様々だ。
とその時、不意にひとつのものに意識を奪われて、全身が総毛だった。
いつからそこにいたのか、奥に位置する墓石の隣に佇んで、じっとこちらを見つめている黒ずくめの女性がいる
ことに気が付いたのだ。
(エンシェント!)
直感が叫んだ。
きびす
何故そこにいて、何故こちらを見ていたのか、疑問すらも抱かずに、ブリジットは我を忘れそうな勢いで踵を返
すと、驚いて目を見開くクロアの顔に出会いながらも、何も言わずに部屋の外へと駆け出した。無意識の内に、
右手が腰の剣を確認している。
「ブリジット、待ちなさい!」
椅子が倒れんばかりに慌てて立ち上がったクロアは、既に階段を下り始めたブリジットの背中に声を投げた。
ただならない様子から、ブリジットが窓の外に何を見たかは容易に想像できた。
しかし、つい先程、自分の口で止まらないと断言した彼女だ。いま一度、呼び止めたクロアの声にも、ブリジッ
トの足がその場に止まることはなかった。
−続−
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