ブリガンディーネ-----4
階段を駆け下りて玄関まで来たブリジットは、両開きの扉の右手側を勢いよく外へ押し開いた。
みち ほう
そこから路へと続く石段が五段ほどあるのだが、何故かそこに見知った背中が惚けたように座っているのに
驚いて、ブリジットは思わず足を止めていた。
「あなた、なんでここに?」
気配と物音にはっとしたように振り向いたその人物は、彼女の姿を見るなり嬉しそうな顔をした。
同時に、亜麻色の髪の毛が呑気そうにふわりと揺れる。
「いや、親方に頼まれてさ。騎士団長に新しい剣を届けて欲しいって」
弟子としてガラトに雇われているサージだ。
ブリジットとはひとつしか年が違わないが、性格に似合わない落ち着いた雰囲気の顔立ちをした彼は、にこに
こしながら立ち上がると、布に包まれた細長い物を振って見せた。
「それがどうしてここにいるの?」
「いや、だから、さ……その……」
つ け
心配したガラトが尾行るように言ったのか。
歯切れの悪くなったサージをひと睨みして、ブリジットは再び墓地に意識を向けた。
鈍感なサージには妖しい人影も見えてはいなかったのであろう。
「クロアに言って、屋敷に入ってて。いい?」
「え?」
ブリジットの真剣な様子から、さすがのサージも何かを感じたのか、緊張したように眉間にしわを寄せた。
墓地のほうを見やって、この時代に生まれた者ならば誰もが直感的に思う嫌なものを彼も察したのだろう。
問うような眼差しをサージが向けた時には、何かを言い出すよりも早く、ブリジットは駆け出していた。
まだあの場にいるかどうかも分からない。今頃になって、本当にエンシェントだったかどうかの自信もなかった
が、しかし、胸騒ぎだけはどうにも抑えることが出来なかった。
路を少し走り、地を蹴って墓地の柵を飛び越えると、ブリジットは窓辺から見えた辺りに来て歩調を緩めた。そ
のままゆっくりと歩みを進めて、木々がそそり立つ森の中を見まわす。
葉のこすれる音、枝同士がぶつかる音、他は何の音もなく静かだ。
ブリジットはそっと右手を腰にまわして、剣の柄に手を掛けると、それをすらりと抜き払った。
仮に、先ほど見たのが真のエンシェントだったとして、次の瞬間に出会うのは、先刻とはまったく違う容姿の
人物かもしれないだろう。女性ではなく、男性かもしれない。あるいは、もっと異形の者が……。
耳にも意識を集中させながら、ブリジットはふと後ろを振り返ってみた。
いつの間にか墓地からはずい分と離れて、森の中程まで来ていたことに今さながら気が付いた。
ずいどう
入ってきた場所が、隧道の入り口のように小さく見える。
知らない森の奥へ行くのはそれだけ危険が増す。それに、まわりの木の多さを考えると、剣を思うように振る
えないのは致命傷だ。
(ここは引き返すべきか……)
ブリジットが迷った時だった。
ぞくりと背中に冷たいものが走り、何かの存在を感じてはっと振り向くと、そこには、あの黒尽くめの女性が
忽然と立っていた。
葬儀の時に着るような上下ひと続きの裾の長い黒衣、額の中央から両方に分けられた髪もまた新月のように
黒く、胸元まで垂れている。その黒とは対照的な青白い顔には、物言わぬ蒼眼が畏怖を与えるほどに妖しく
光っていた。
何よりも目を引くのは、その容姿にはおよそ似つかわしくない、紅い鞘の剣を腰に帯びていることだ。
(間違いない。エンシェントだ)
今までに感じたこともないような恐怖とも違う妙な感覚に、ブリジットは思わず息を殺した。
エンシェントとはこれが初めての対峙だが、自分の血がそうだと認めているような、異様なほどに全身がそ
の存在を感じ取っている。
(この感じはなに?)
あまりの緊張感に気分が悪くなりそうだった。
初めて遭った気がしないのは気のせいか。目の前の女性に見覚えはなかったが、引き寄せられるような何か
がブリジットの感覚を狂わせようとしていた。
(駄目だ。断ち切らなければ……)
そう思い、構えることを忘れていた剣の柄を握り直した時だった。
無表情のままブリジットをじっと見つめていたエンシェントは、何も言わずに徐ろに頭を左に振ると、ゆっくりと
体を回転させて、衣擦れの音ひとつ立てずに背を向けた。
「待て! お前は何者だ!?」
ようやく口から出てきた言葉をその背中にぶつけた瞬間、否、それと同時に、突然がさりと黒く大きな物体が
頭上から落ちてきたかと思うと、風が巻き起こってブリジットの目の前を素早く何かが横切ろうとした。
それに対し、ブリジットの反応も速かった。
・ ・
反射的に右手の剣を斜めに立てると、一瞬のそれを寸前で防いでいた。
刀身にずしりと重みが掛かる。見れば、人差し指と中指、薬指だけ異様に長く伸びた三本の爪が、ブリジット
の剣を受け止めていた。その手は焼けたように黒く、極端に肥大していて、腕も普通の人間よりは二倍長い。
(レリックか!)
ブリジットは心の中で叫んだ。
その腕の持ち主であるレリックは、見た目は人間と同じ形をしているが、顔の半分は目がなく、体のいたる
部分が不自然に歪んでおり、まるで雛鳥のような薄い頭髪が惨めな印象を与えた。
今まで切り捨ててきた多くのレリックの中でも、異形を極める二、三の指には入りそうだ。
押される力を右手だけでは支えきれなくなると、ブリジットは剣を横に倒して絡まったレリックの爪を外し、
瞬時に手首を回転させて下から上方へと弾いた。
再び、剣と爪がぶつかり合って、金属のような鋭利な音が響いた。
ちらりとレリックの後方を見ると、今しもエンシェントの背中が木々の奥へと消え失せるところであった。
(……何も……まだ何も……)
その悔やみと視線をまたも三本の爪が遮り、苛立ちを感じながらもブリジットはそつなく身を躱した。
まずはこの長い腕を落とさなければ、間合いに入ることが出来ずに不利が続く。
そう判断したブリジットは咄嗟にまわりの木の位置を確認して、右手側のいちばん近い大木に駆け寄ると、そ
れを背にして、レリックの次の一撃に備えた。
案の定、彼女の体を捉えようと追って突き出されたレリックの爪は、あと少しのところで躱され、身を反らした
ブリジットを傷つけることなく、勢いよく大木に喰い込んだ。
こうなるであろうことを予測していたブリジットは、透かさず剣を振り上げ、動けずにもがく右腕を叩き切った。
かはく
上腕から分断された下膊は木に刺さったままだらりと垂れ下がり、攻撃手段となる唯一の爪を奪われたレ
リックの口元からは、悔しげな荒々しい息が漏れ出した。しかし、レリックは引き下がるどころか、勢いを増し
て左手を繰り出してきた。
ブリジットもこれくらいのことで物怖じすることはない。冷静にその動き見極めると、素早く柄の先で攻撃を振り
払い、胸元を狙って返しの一閃を浴びせた。
切り裂かれた皮膚からは赤黒い血が吹き出し、さらに荒い息が鼻から漏れる。ほとんどのレリックがそうだ
が、言葉らしい言葉を発することはまずない。
細めたり見開いたり、何か言いたげな片眼が鋭さを増した。
一瞬の間に何を考えたのか、レリックは切られた部分に左手を持っていって、流れ出る自分の血を握るように
拭うと、ブリジットめがけて投げつけてきた。
「………!」
突然のことで驚いたブリジットは、不覚にも咄嗟に右手で身を庇っていた。
しまった、と思った時には、剣を持つ右手ではなく、義手である左手をレリックに掴まれていた。
しかも、想像以上にもの凄い力だ。
慌ててブリジットが半身を引いた時には既に遅く、力と捻りを加えられた義手は、脆くも手首の部分から引き
ちぎれた。正確には、手首と下膊をつなぐ革帯が、だ。そう、先ほど分断された右手を再現するかのように。
「これで同じだとでも?」
ブリジットは静かに吐くと、右手を掲げて剣を振り下ろし、自分の手首を持って興奮しているレリックの腕を切
り落とした。さらに、脇腹で右手を固定すると、まばたきの間も置かずに、そのままレリックの体へと突進した。
狙いを違わずに剣はその身に深々と突き刺さり、引き抜くのと同時に、奇妙な形をした体は力なく地面に倒れ
込んだ。
(……終わりだ)
不規則に呼吸をするレリックを見下ろしながら、ブリジットは止めを刺さずに終焉を見届け、静かにその場を後
にした。
ちぎれた自分の左手首と、エンシェントとの対峙の余韻を残して。
「ブリジット! 大丈夫か?」
森から出てきたブリジットを迎えたのは、心配そうな顔をしたサージと、厳しい表情のクロアだった。
墓地から先は危険だと判断して、戻ってくるのを待っていたようである。
「その血……怪我は?」
透かさずクロアが訪ねてくる。
「……大丈夫。私の血じゃないから」
改めて自分の全身を見て、ブリジットは少し驚いた。あの時、レリックに投げつけられた血や返り血を浴びた
せいで、衣服には不気味な斑点模様が出来ていた。顔にも違和感があることを考えると、どうやら血がこびりつ
いているようだ。
「怪我はないけど、ごめんなさい。手首を……」
そう言って、ブリジットは左の義手をさすって見せた。
「いや、そんなことはいい。君が無事ならいいんだ。それより……」
一瞬、間があいた。
ブリジットが屋敷を飛び出した瞬間を見ている彼である。クロアの鋭い視線が何を聞きたがっているか、ブリ
ジットには直ぐに想像がついた。
「……エンシェントがいたのか?」
「ええ」
−続−
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