いくつもの雲が流れ 後編
  
    

  見れば、女性と呼ぶにはまだ幼い感じのする少女が、地面の上に両膝をついて、心配そうに顔を覗き
                                               
みまご
 込んでいる。年の頃は十六、十七といったところか。涙で潤んでいるのかとも見紛う黒い瞳、
   
 緑の黒髪と呼ぶに相応しい艶やかな長い髪、それを高く結い上げている容姿は、どことなく、初めて
          
り し な
 出会った時の李紫奈を思わせた。
         
  それから、陸都はゆっくりと辺りを見まわして、ここはどこなのかと少女に尋ねながら、凭れていた木から
           
みじろ
 上体を起こそうと身動いで、軽い眩暈を覚えた。

 「あっ、いけない!」

  少女は慌てて、頭を押さえて倒れそうになる陸都を脇から支えた。
                                        
いおり
 「風邪をひいてるのよ。ひどい熱だもの。……良かったら、あたしの庵に来ない? 手当て、出来ると

 思うの。ここから近いし」

  少女の申し出に、陸都は少し間を置いてから答えた。

 「そのほうが、賢明のようだな。このままでは、動くことも叶わぬ」

 「手を貸すわ」

  少女は軽く微笑んで、見ず知らずの人間であるはずの陸都を親切に扱ってくれた。

  久し振りに触れた人の暖かさに、陸都は心が和んだ。
                         
  李紫奈は殺され、その報復も叶わず、華悠羅も見つからず、果てはどことも知れぬ森に迷い込み、

 まさに、絶望の淵に沈み込もうとしていたところへ、彼女が現れたのである。

  そう。まるで、あの時の李紫奈のように。

  ふらつきながらも、少女の肩を借りて何とか立ち上がった陸都は、名を聞かせて欲しいと尋ねた。

  少女は快く承知すると、人懐っこそうな笑顔で答えた。
        
さ や め
 「あたしは、紗弥萌。貴方は?」

 「私は陸都だ」




  木々の間から見える東の空が、朝焼けの薄い紅に染まっている。

 「これから、どうするの?」

  目を細めてその空を見つめていた紗弥萌は、ちらりと陸都の顔を伺ってから、そのまま下を俯いた。

 自分で気がついているのかどうか、ほうとため息をついている。

  陸都は微笑みを浮かべて、紗弥萌が見ていた空を振り仰いだ。

 「もちろん、華悠羅を探すつもりだ。君には世話になったな、礼を言うよ」

 「ううん、いいのよ、そんなの……」 

  紗弥萌は笑顔で首を振り、それきり言葉が続かなくなると、気まずそうに再び俯いて、前に垂れ下がった
         
 自分の髪を弄んでいる。

  どちらかといえば、紗弥萌のほうが別れを惜しんでいるようにも見えた。

  彼女の看病のおかげで直ぐに回復した陸都は、紗弥萌にせがまれてもう一日だけ養生すると、

 これまたせがまれて、華悠羅を探している旅の目的を話して聞かせた。

  しかし、紗弥萌も華悠羅は知らないという。

  その答えを聞いて、陸都は腰を上げることにした。ここに留まる理由はもうない、と。
                      
 おそらく、華悠羅を探す道すがら、光叉に戻ることになるだろう。

 「……それじゃ、紗弥萌」

  視線を戻し、陸都がそう言って背を向け掛けた時。

 「待って、陸都!」

  何かを思い立ったように、紗弥萌が突然、腕を掴んで引き止めた。驚いて振り返る陸都を、真剣な

 面持ちで真っ直ぐに見上げる。

 「あたし、ほんとは華悠羅を知ってるの」
 
 「……紗弥萌……」
 
  一瞬の間の後、陸都は我を忘れそうなほどの勢いで、紗弥萌の両肩を掴んだ。

 「本当なのか? 教えてくれ、華悠羅はどこにいるんだ?」

  紗弥萌は、陸都に激しく肩を揺さぶられながら、困惑したように顔を逸らすと、なぜか、かぶりを振り続けた。

 「だめ、あたしには言えない。とても、言えないわ」

 「なぜ?」

  しまいには、両手で顔を覆ってしまう紗弥萌に、陸都ははっと冷静さを取り戻した。肩を掴んでいた手を

 そっと離し、ひと言、すまないと謝る。

  しばらくの間、二人のまわりに静かな沈黙が流れ、朝焼けの清々しさとはうらはらな重苦しい雰囲気が

 辺りを包んだ。

  こうしている間にも、時は無情にも過ぎゆく。 

  陸都は焦る気持ちをぐっと押さえて、代わりに大きく息を吐き出した。

 「すまない。はじめから期待などしてはいなかった。いいのだ、紗弥萌。話したくないことなら……」

  無理強いしようとした罪悪感から、陸都は軽く目を伏せた。

  当の紗弥萌はひどく辛そうに顔を歪めて、自分の襟元をぎゅっと掴む。

 「違うのよ、陸都。……あたし……」 

 「もういい。無理に話すな」
 
  ふと、陸都の力強い手が紗弥萌の肩に触れた。心の内にある何かと葛藤するように、またかぶりを振る

 彼女を、陸都は自分のほうから宥めたのである。

  少しきつい口調だったろうかと心配する陸都を、紗弥萌は驚いたような目で、はっと見つめ返した。

 「君の気持ちが分かるといえば嘘になる。でも、辛い思いをしてまで話されるのは、こちらも辛い」 

 「……陸都……」
        
  優しい色を湛えた陸都の眼差しに、紗弥萌は胸に込み上げてくるものを必死に押さえた。困っていたのは

 陸都のはずなのに、自分は何をしているのだろう、と。

  それから、すべての迷いを振り払うように、すっと顔の表情を引き締めると、紗弥萌は俄かに、

 肩に置かれた陸都の手を握り返して、再び正面から見据えた。

 「あたしも一緒に行くわ。李紫奈の仇をとるの。それくらいなら、あたしにだって出来る。華悠羅が

 見つからなくたって、出来ることからやるのよ。ね? 仇を取ろう、陸都」

 「………」

  陸都には、紗弥萌がなぜそんなことを言い出したのか、よくは分からなかった。ただ、この少女と共に

 風代へ行けば、何かが変わるような気だけはしていた。




    
 4、報復の舞い、舞い踊る時



 「もう素性を知られてしまったのかしら……?」

 「そんなはずはないだろう。この風代で私の顔を知る者といえば、たったひとりしかいない」

 「でも、こんなに簡単に中に入られるなんて……罠かしら?」

 「勘ぐり過ぎだ。都人の話では、御子は余興が好きだということらしいからな。あの番兵、それで

 私たちのことを鵜呑みにして御子に伝えたのだろう。話が嘘なら、その時点で門前払いになってるさ」

  陸都と紗弥萌の二人は、旅の楽士と舞姫を装って、風代の宮殿の内部、しかも、御子の御前へと

 上がることに成功していた。

  御子に舞楽を披露したい、と申し出たのである。陸都の意を伝えに行った番兵は、意外にもあっさりと

 二人を招き入れた。
  
うねめ                                     すおう  
  釆女らが設けていった座に腰を据えた陸都は、白い衣に袖のない蘇芳の染衣を着込み、後ろに結んでいた
                                        
あお   とくさ
 髪を解いて、被り布を目深にかぶっている。一方の紗弥萌は、白と碧、木賊色とを組み合わせた衣を着込み、

 手には舞い扇を持ち、唇には鮮やかな紅を差している。            

  陸都は、着飾った紗弥萌を眩しそうに眺めつつも、眉をひそめた。

 「紗弥萌?」

 「なあに?」

 「今からでも外に出ることは出来るぞ?」

 「外に出るって、なぜ?」

  きょとんとした様子で、紗弥萌はまるで子供のように聞き返した。いや、陸都の目からすれば、

 紗弥萌は充分に子供らしく見えるのだが。

 「なぜって……間違っていると思わないか?」

 「間違っている? 報復することが?」

  さすがに、紗弥萌も今の言葉は声を落とした。

  陸都としては、こんなことに他人を巻き込んでしまった自分を今さらながらに恥じて、紗弥萌だけでも

 手を引かせたかったのである。

  返答に困っている陸都を上目遣いに見上げて、紗弥萌は、あっ、という顔をする。

 「もしかして、あたしが怖じ気づいてるとでも思ったのね? そうなんでしょ? おあいにくさま。

 あたしは断然、平気よ。それより、楽士さんのほうが緊張しちゃって、肝心の楽が奏でられないなんて、

 あたしは嫌よ?」

  少女は余裕の笑みさえ浮かべて見せ、陸都をからかうように明るく言った。

  紗弥萌を気遣ったつもりだったが、逆に勇気づけられてしまったようである。弱気になっているのは

 自分のほうなのかもしれない、と陸都は心の中で苦笑した。

  とその時。

  右手の回廊からざわめきが起こり、白一色の衣に紺色の帯を絞めた風代の御子が、
                                              
 まさに風の如く静かに現われ、二人から少し離れた場所に設けられた座に胡座をかいた。

  首に掛けられた装飾品が、微かな音を立てている。

  間もなく、凛とした声が響いてきた。
                      
 「旅の楽士と聞いた。舞楽というと、里神楽か?」

 「いえ、雅楽を少しばかり心得ております」

  俯く程度におもてを下げて、陸都は答えた。
 
 「そうか。……では、さっそくだが、見せてもらえるか? 私の心を満足させられたなら、

 褒美をつかわそう」

  思っていたよりも穏やかな声が言う。

  本当にあの男だろうか、という疑問符が一瞬頭に浮かんだが、確かに聞き覚えのある声だと確認して

 から、陸都は軽く一礼をして顔を上げた。

  被り布の陰から、正面に座る御子を見据える。それから、光叉を出る時に持ってきた竜笛を腰帯から

 引き抜き、紗弥萌の目にも優雅だと映る仕草でそれを横に構えると、歌口に唇を添えた。

  それを合図に、隣に座していた紗弥萌が衣擦れの音と共にすっと立ち上がり、二歩ほど前に進み出て
 
 中央に立つと、舞いの姿勢をとった。

  はらりと、左手の舞い扇が開かれる。

  陸都は深く息を吸い込んで、記憶を辿るようにゆっくりと目を閉じた。

 (……李紫奈……私に力を貸して欲しい)

  心でそう呟き、李紫奈から教わった雅楽を、彼女が愛用していた横笛を、陸都はそっと奏で始めた。

  水のように澄んだ竜笛の音が風に運ばれていき、その音に合わせて、紗弥萌が優雅に舞を踊る。

  まるで、衣擦れの音までもが、楽の音を奏でているかのように。そして、まったく異なった二つの音が

 合わさって、しんと静まり返った殿舎に響き渡っていく。
         
  その間も、陸都は決して風代の御子から目を離さなかった。
  
  角髪を結った御子は、片膝を立てたその上に頬杖をついて、笛の音に耳を傾けつつ、庇から差し込む

 陽の光に目を細めながら、薄らと微笑みさえ浮かべて紗弥萌の舞いに見惚れている。

  陸都は不思議な気持ちに襲われていた。

  怯むという言葉すら忘れていたあの時でさえ、刃のように鋭い殺意を秘めたこの男の目は、

 その眼光で殺されるのではと思えるほど脅威に満ちていた。だが、どうだろう。ひと月ほど前に会った

 この男は、まるで別人のようにも思える。

  これほどまでに穏やかな男が、本当に人を殺めたのだろうか。

  陸都の心にまた疑問符が浮かぶ。

  そして、あの日死んだはずの男と、その男の死を確信して去っていった男とが、今こうして場を同じくして

 いることが、陸都には半ば信じられないような気もしていた。

  いや、確かに自分は今ここにいる。そして、報復すべき男が目の前にいるのだ。信じるに充分な現実と

 事実が、ここに揃っている。

  楽が最後の節に差し掛かったところで、陸都は竜笛を吹いたまま徐ろに立ち上がると、舞いを踊り続け

 ている紗弥萌の脇を通って、風代の御子の面前に進み出た。

  穏やかな表情のまま、けれど、笑みを失った御子の瞳が陸都を静かに見上げる。

  傍に見る風代の御子は、あまりにも李紫奈に似すぎていた。

  いや、李紫奈に見えたと言ってもいい。

  陸都は逆にそれで心が落ち着き、冷静な気持ちで竜笛の歌口から唇を離すと、被り布をそっと床に払い

 落とした。
 
 「………」 

 「やはり、驚きにはなりませんでしたね」

  おおかた予想していた通りの反応に、陸都は思わず口元を歪めた。

  もしかしたら、陸都がこうして現われることを予期していたのかもしれないが、その時は、絶対に畏怖

 するような男ではないだろうと思っていたのである。

  案の定、驚くでもなく、狼狽するでもなく、 焦りの色さえも浮かべずに、ただ、そこに座している。

  自分で手に掛けた李紫奈を前にしても、平然としていた男である。この男は、その心の内でも、

 決して驚くということがないのではないだろうか。
 
  御子は、永遠にも思えるような長い沈黙のあと、再びその瞳に薄らと微笑みを湛えた。

 「見事な楽と舞いだった。約束通り、褒美を遣わそう」

  よもや見忘れたのか、それとも素知らぬふりをしてるのか、御子は何事もなかったかのように

 いや、楽に酔いしれた顔をしてそう言って退けた。

  逆に、陸都の顔からは高揚しかけた気持ちがいっきに引いていく。思わず、唖然として、言葉を失っている

 自分に気づくのに遅れたばかりか、御子に見据えた目の瞬きをも忘れていた。

 「どういうこと……?」

  舞いを終えた紗弥萌が、陸都の隣に歩み寄ってきて、小声で囁いた。

  陸都も同じ気持ちだった。しかし、御子の言葉の裏にある意味に気がつくと、表情を引き締めて、

 竜笛を腰帯に差し込んだ。

 「褒美か。……ならば……」

  辺りを憚るように陸都は静かに言い、胸元の隠しから抜き身の短刀を取り出すと、風代の御子の

 喉にそれを突きつけた。

 「貴方の命、戴けますか?」 

  ついに、望んだ瞬間が来た。

  思ったよりも落ち着いているものだな、と陸都は我ながら思った。再会と呼ぶには穏やかなものでは

 ないが、その瞬間が訪れた時には、きっと、感情を押さえることが出来ないだろうと考えていたのである。

  それが、どうだろう。

  仇であるはずの男に短刀を突きつけてもなお、怒りの感情すら湧いてはこなかった。
                                                  
 「李紫奈は、貴方が自分の身を滅ぼしに来るだろうことを知っていた。知りながら光叉に留まることを

 望み、私と共に生きることを選んだ。……何故だか、貴方に分かるか?」

  陸都はそこで一度、言葉を切った。

  そのことに気づけなかったこの男が、不意に、哀れに思えたのである。何も知らずに、ただ、相手の

 存在をなくすことだけしか考えられなかった、この男が。

 「貴方はおそらく、李紫奈がなぜ光叉へ行ったのかも、理解してはいないのでしょうね。李紫奈は、貴方の妹は

 兄の罪を償うために光叉へ行ったのです。それを、たとえ貴方が風代の御子であろうと、李紫奈の行いを責める

 権限などあるはずがない。まして、命を奪うなど。償ってもらえますか? この風代を捨ててでも、御子の罪

 を償おうとしていた李紫奈から、その代償として貴方が命を奪ったように。私から奪った、たったひとつの命

 と、光叉から失われた大勢の命の代償に……」

  話している間、陸都の頭の中では、五年前の戦から李紫奈との出会い、復興を始めた頃の光叉や、

 森で庵を作った日のこと、そこで暮らし始めた頃からあの悲劇までが、風のように通りすぎていった。

  どんなに苦しい時でも、人々と笑い合えたあの日々が、遠い記憶の中へ、暗闇の中へと、色を失うように

 儚くも消えてゆく。

  そして、不意に後ろから誰かに抱きすくめられたような気がして、陸都はゆっくりと現実に意識を戻した。

  目の前には、じっと自分を見上げている男がいる。

  喉元に短刀を突きつけられたまま微動だにせず、平然とした様子でいるその男の端正な顔に、ふと、

 消えたはずの李紫奈の顔が陸都の中で重なった。

 (……そう、なのか……?) 

  誰に答えるともなく陸都は心で呟き、大きく息を吸い込んでそれを吐き出すと、次の瞬間、

 自分でも驚くことを口にしていた。

 「この風代の地を今この場で汚さないと私が誓える代わりに、貴方も光叉の地をこれ以上、血で汚さないと

 誓って下さい。それが、私が望む貴方への代償であり……李紫奈の慈悲でもある」

 「陸都!」

  事の成り行きを隣で見守っていた紗弥萌が驚きの声を上げて、それと同じ視線を陸都に向けると、

 短刀を持っていないほうの腕を揺さぶった。

 「どうして? ここまで来ておいて、この男を許すというの? 陸都がやらないなら、あたしがやる!」

 「その娘の言う通りだ。甘いと思わないのか?」

  意外にも、紗弥萌の意に賛同した御子が、恐れも怒りも悲しみもない目で、上目遣いに陸都を見上げた。

 「その慈悲、命取りになるぞ?」

 「それは貴方にも言える」

  陸都は一笑し、怒ったように顔を歪めている紗弥萌を宥めようと、彼女の手をやんわりと解いてから、

 軽く手で制した。

 「いつでも兵士を呼べる機会がありながら、貴方はそうはしなかった。何故です? 貴方も情けを知る

 人間だからだ。私は正直、安心しました。同胞を平気で殺せるような男、どれほど酷な人間かと思っていた。

 人間の心を持っているのだろうか、とも。だが、舞楽を楽しむことを知る、余興好きな、ただの貴族だった。

 それでは、私の感情も冷める」

  陸都は不意にそこで口を噤み、抜き身の短刀に目を落とした。

  その鍔には、風代の紋章が刻まれている。

  李紫奈と出会った日---。傷を負い、すべてを投げようとしていた自分を救ってくれた彼女が、あの時

 持っていたものだ。

  それからゆっくりと、陸都は再び御子へと視線を戻した。

 「さっき、李紫奈が教えてくれましたよ。一時の感情に捕らわれて私がここで貴方を殺せば、あの時、

 御子が犯したのと同じ罪を私が負うことになる、と」

  陸都はそう言ってから、短刀を隠しに戻して、床の被り布を拾い上げた。

  そして、満足そうに微笑んで見せた。

 「私は何も望みません。私が生きていることこそが、貴方への報復になるはずですから……。もし、

 御子の殺意が再び向けられた時には、私は何度でも甦って、この風代の宮殿で楽を披露して差し上げますよ」




     
5、新しい朝日が昇るように

                     

  早々に御子の御前を退出した陸都は、不服そうに文句ばかり言う紗弥萌を伴なって、風代の国境を

 越え、故郷である光叉の程近くまで戻ってきていた。

  それからというもの、なぜか、戻りたくないという意識が陸都の心に働き、歩調を緩めては、道草を喰っていた。
  
えんし
  苑志と約束したひと月も、明日で終わってしまう。
  
  華悠羅を探す旅の目的も達せられず、風代への報復もうやむやになってしまった今、陸都は丘の野原に

 寝転んで、ぼんやりと空を眺めていた。

  澄み渡る青い空はどこまでも広く、その空をいくつもの雲が流れ、鳥が自由に駆けめぐっては、

 優雅に飛んでいく。その空も、東天からは夜の薄闇が迫り、西天は夕暮れの紅に染まりゆき、

 次第にその様相を変えていった。

 「どうして報復しなかったの?」

  不意に、紗弥萌が沈黙を破った。ようやくおとなしくなった彼女は、何としてでも陸都からその答えを

 聞きたくて、風代を出た時からじれったい思いをしていたのである。 

 「あたしには納得できないの。何のために風代へ行ったのよ。あたしには、陸都の気持ちだって

 これっぽちも理解出来ないわ!」
 
  今まで堪えていたものをいっきに吐き出すように、紗弥萌は半ば悲しげに、仰向けに寝転んでいる陸都を

 きっと睨みつけた。

 「陸都はそれで満足だというの?」

 「……満足だといえば嘘になる。だからといって、もはや報復する気も失せた。どうしてなのかは、

 私にもよく分からない。……本当に、私はあの男の死を願っていたんだろうか……? いや、はじめは、

 そう望んでいた。確かに、望んではいたのだ」

  ゆっくりと流れていく雲を見つめながら、陸都はその動きに合わせたように穏やかに答えた。それは、

 紗弥萌に答えているというよりも、自分自身に言い聞かせているようだった。

  陸都はほうと軽く息をついて、故郷に近づいた懐かしい匂いのする柔らかい風を、深くゆっくりと吸い込んだ。

 「たしかに望んではいた。だが、あの男を殺したところで、私に何が残る? あの男は、私がああして

 報復に来たことを見事だと言った。その時点で、私は負けたのだよ、紗弥萌。直ぐに分かったことだ。

 私に勝ち目はない、と」

 「勝つとか負けるとか、そんな問題じゃないでしょう?」

  紗弥萌はため息まじりに嘆いた。こんな弱々しい陸都を見たくて、一緒に風代に行った訳ではないのである。

  呆れたような紗弥萌の声に、陸都は思わず苦笑いを浮かべた。

 「確かに……。それは、紗弥萌の言う通りだ。だが……満たされない感情を埋めるために、自分の欲する

 ものを他人から奪う。それが復讐なら、奪われたもののために償いを求めて、また私のような人間が

 現われるだろう。そして、報復にも来るだろう。それでは駄目だ。同じことの繰り返しにしかならない」

 「陸都はそれでいいの? 自分に屈することが悔しくはないの? 報復されるのが怖いから、

 そんな意気地のないことを言うのね。情けないわよ。陸都は男じゃない!」

  ぴしゃりという紗弥萌の言葉に、陸都は内心、肩を竦めた。

 「そうかもしれないな。……私が私であることの命は一度しかない。報復されるのは恐ろしいよ。でも、

 御前で言ったことを覚えているだろう? 私の命があの男への報復になると。もし、あそこで風代の御子を
                                     
 殺めていれば、私は今よりもっと絶望することになるだろう。一時の満足のために人をひとり殺すくらいなら、
                 
・ ・
 一生を絶望で過ごすより、ましなのではないかと思ったのだ」
                                 
まとも
  陸都はそう言ってから、今日はじめて紗弥萌の顔を正面に見つめた。 

 「……紗弥萌には、本当に悪いことをしたな……」 

  その弱々しい微笑みに、紗弥萌は胸が詰まるような感じを覚えて、ゆっくりと首を横に振った。

 「悪いことだなんて……」 

  ついさっきまで怒っていた人が、急にその表情を緩めて、悲しげな目つきをする。

 「あたしは陸都を助けたかっただけよ。助けたかったから、一緒に風代へ行ったの。……違うわね……。

 あたしは李紫奈の代わりになりたかったんだわ。嫉妬していたのかもしれない……」

 「……紗弥萌、何を……」

  驚いて上体を起こす陸都に、今度は紗弥萌が微笑んで見せた。 

 「陸都、言ったわよね、『何度でも甦って、風代の宮殿で楽を披露して差し上げる』って。転生するにしたって、

 どれほどの時間がかかるの? ここはもう神代じゃない。死んでしまったら、華悠羅の力でもなければ、

 直ぐには生き返られないわ。そうでしょ? だけど、華悠羅の力だって絶対じゃない」

 「紗弥萌は……そうか、知っていたのだったな」

 「知っていて当然だわ。華悠羅はあたしだもの」

 「………!」

  がっかりしたようにため息をついた陸都は、紗弥萌のその衝撃的な言葉に、一瞬、はっと息を止めた。

  どうして、と口を開き掛けた陸都を、紗弥萌の視線が遮る。

 「あの時、あたしが話せなかったのはね、陸都が華悠羅のことを知らなすぎたから。だから、迷ったの。

 あたし自身もなかなか決心がつかなくて……。でも、もう話せるわ。覚悟は出来たもの」

 「覚悟? ……紗弥萌、どういうことだ?」

  ただならない様子を感じて、陸都が問い詰めようとすると、紗弥萌は身を躱すようにすっくと立ち上がり、

 前に進み出て舞いを踊るように振り返った。

  何かを決意した紗弥萌の顔は、いつもより大人らしく、綺麗に見える。

 「風代の御子も、陸都も李紫奈もあたしも、結局は、この世にただ一人しかいないということよ。

 『自分が自分であることの命は一度しかない』本当にその言葉通りね。分かるでしょう? 一度失われた

 命を再び元に戻すには、代わりが必要なの。そう考えると、報復の意味と似たようなものかもしれない。

 どうしても取り返したいもののために、代償を払う。それが、華悠羅であるあたしに出来る事」

  紗弥萌はそう言って、真っ直ぐに陸都の目を見つめた。

  少女のその瞳は、悲しいほどに綺麗な色をしている。

  茫然と話を聞いていた陸都は、紗弥萌の言葉が意味するところを解すると、突如、眠りから覚めたように

 さっと立ち上がり、激しい形相で彼女の細い両肩を掴んだ。

 「だめだ! そんなことのために、紗弥萌の命が奪われていいはずがない! 紗弥萌は、華悠羅である前に 
 
 ひとりの人間だろう? そんなことを私が許せば、それこそ風代の御子と変わらないじゃないか!」

 「違う。それは違うわ」

  乱れていく陸都を見るのは嫌だったが、紗弥萌は平静を保って、優しく首を横に振った。

 「陸都が風代に報復しようとしたのは誰のためだった? 李紫奈を取り戻そうとしたのは? 李紫奈は、

 陸都を守るために覚悟したのでしょう? ……その気持ちと同じなのよ。あたしは、はじめから陸都の役に立とう
                                            
さだめ
 と決めたんだもの。だけど、誤解しないで? 決して、華悠羅は死すべき運命にある民ではないということを」

  紗弥萌は微笑みを絶やさないまま、明るく振舞った。

  ひとたび堅く決心してしまった人間の心を変えることは誰にも出来ない。そのことを、目の前の紗弥萌が

 物語っている。 

  陸都は言葉を失い、込み上げてくるものを必死に押さえた。

  紗弥萌も困ったように、そして、微笑みを淋しげな笑顔に変えた。
                
 めぐ
 「大丈夫よ。華悠羅の命も廻るわ。それに、あたしの気持ちは李紫奈と共に生きることが出来る。

 正直言って、あたしもはじめは自分の身の上を損な役回りだと思ってたわ。でもね、陸都と一緒にいる

 ようになって、ようやく分かったの。人は誰でも必ず自分の役目を持っているんだってことが。陸都が

 見つけたように、あたしも見つけたのよ。だから、悪いだなんて思わないで」

  そう言ってから、紗弥萌は堪らず陸都の首に抱きついた。

 「ありがとう。陸都のためにあたしが役に立てるなんて、これほど嬉しいことはないもの。華悠羅として

 生まれて、あたしは本望だわ。いま心からそう思える」
 
  涙を堪えて、紗弥萌は首筋に接吻するふりをしながら、耳元で小さく言葉を唱えると、満面の笑顔で

 陸都を見つめた。

 「……目が覚めたら、すべてが終わっているはずよ。変わらない、けれど、新しい朝日が昇るの。 

 そこからすべてが始まるわ。人も、風も、心も。新しい始まりが待ってるの」

  紗弥萌がゆっくりとその身を離すと、不意に陸都はその場に崩折れ、再び草の上に仰向けに寝転ぶ

 姿勢となった。

  遠のいていく意識の中で、紗弥萌の笑顔と、その後ろに広がる空と、幾つもの流れゆく白い雲が見えた。
                                
まわ
  あの雲のように、そして、めぐる朝日のように、人も廻り続ける。

  決して、終わりのない……。



 「目が覚めたのね? 気分はどう?」

  天井を背に、女性の優しい顔が覗き込んでいる。

  その顔には見覚えがあった。

  陸都は霞む目をこすり、安堵したように伸びをした。

 「ここは?」 

 「まあ、寝惚けているの? さあ、起きて。さっき、苑志が来てね、よく熟れた枇杷を置いていってくれたの。

 陸都、まだ眠っていたから、起こすのは悪いって、それだけ置いて帰ってしまったのよ」

  彼女は微笑みながら、ほら、と言って、たくさんの枇杷が積まれた籠を陸都に見せた。

 「それからね、気が向いたら後日にでも二人で家を訪ねて欲しいって。陸都、もちろん行くでしょ?」

 「……ああ、そうだな。苑志には、いろいろと迷惑もかけたし……」

 「それじゃ、さっ、その前に起きて、枇杷をいただきましょう?」

 「ああ。……李紫奈……?」

 「ん?」

 「……おかえり……」

 
 [終]



あとがき---いかがでしたでしょうか? 誤字脱字などがあったらゴメンナサイ。

それから、時代考証や地名などはすべて架空です。人物などは実在しません。

実はこのお話、私が17、8の頃に既に完成させたものでした。

ただ、日の目を見ることがなく、ワープロのフロッピーに眠っていた原稿を起こして、

加筆したものを会誌に載せて頂き、さらに今回

サイトにも載せることにしました。より多くの人に、という私の願いからです。

ちなみに、会誌の原稿から再度、サイト用に書き直す際、ほとんど手は加えませんでした。

2、3行加えて、同じく2、3行削った程度です。

何か少しでも感じて頂けるものがあれば、作り手として幸いです。

ここまで読んで頂いてありがとうございました。感謝。 


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