サリアスの砂時計  
VOL,5



 胸ぐらを掴まれた姿勢のまま、ワタシは相手の顔を正面からじっくりと見据えた。

 こんな状態でじっくりというのも妙な話だけれど、目を閉じたり、逸らしたりする

ほうがかえって怖かったからだ。

 切れ長の蒼い瞳がキレイな印象を与える反面、金属のような無機質な冷たさを

隠し持っていて、見ているだけでも背中が寒くなるような気がした。

 年齢不詳に見えるのは、胸元までおろされたストレートの長い髪のせいかもしれ

ない。その黒髪とは対称的な白いドレスが、より若い感じに見せるのかもしれな

かった。実際は、ボータよりも上はいっていそう。

 それに、なぜだろう、どこか悲しそうな雰囲気がする。

 どこがどうという訳ではないのだけれど、遠くを見つめるように、心だけがどこか

へ行ってしまっているような……

「誰の手引きか言いなさい! 言えないの?」

 静寂を裂く怒号に、ワタシは思わずびくりと体を震わせた。

 手引きって……? リシアンサスたちのこと? 

 違う。

 いいえ、そうだ。間違いない。

 ワタシの中で、波紋が広がるみたいにゆっくりと確信が広がった。

 この人が、ボータたちの言っていたかの王妃なんだ、って。

「ここにいるべきじゃないことくらい、自分でも分かってるわね?」

「………」
                     ・・・・・ 
「それとも、そんなことも分からないくらい、自分は子供だとでも言いたいの?」

 辺りを憚ろうという気持ちもないほどに女性の口調は強く、皮肉めいていて、

消しようのない怒りに満ちていた。
                             ・・・ 
 外へ出ちゃいけないんだ。出るべきじゃないんだ。ワタシも、あの人も。

 この人の怒り様を見ていれば、それがはっきりと分かる。絶対に普通じゃないし、

ウラに何かあります、って明言しているようなもの。

 疑いようもなく、疑うこともなく、この人はワタシのことをサリアス本人だと

信じている。

 それほどに似ているという証拠。リシアンサスやボータの反応だけではあやふや

だったことを、今になってワタシはようやく実感していた。

 ほんとうに、うりふたつなんだって。
 
 痛い目を見てからでは遅いんだという後悔も認めなくてはいけなかった。

 そう、ワタシはあきらかに後悔していた。

 サリアスに会ってみたいなんて無謀なこと、何で思ったりしたんだろう。

『衝動で終わらせずにちゃんと動けるんだと、自分を信じたかった?』

 それは考えなしというもので、勇気でも何でもない。単なるバカだ。


 そんな自分が何だか急に悔しくなってきて、目の前の女性の顔が再び涙で歪み掛け

た時、胸ぐらを掴む手によりいっそう力が入った。

「そこまでして私を煩わせたい? いいわ。来なさい!」

「や……」

 やめて。行きたくない。

 唇が震えて、叫びはおよそ声にも言葉にもならなかった。

 服を掴む手は外れたけれど、今度は爪が食い込むほどに腕をわしづかみにされ、

ものすごい力でぐいっと引っ張られた。

 きっと、ボータの言っていた断崖の塔へ連れて行かれるんだ。

 そして、間違われたまま一生そこに幽閉されるの?

 考えただけでもぞっとする。

 何とか逆らおうと踏ん張ると、細かい砂利が足の裏を容赦なく引っ掻いてきた。

 裸足でここまで来た自分を褒めてあげたいところだけど、やっぱり、バカさ加減が

身に染みてしまい、痛いと感じる余裕もなかった。

 腕が捥げてもいい。

 何でもいいから、この人から逃げないと!

 半ば自棄気味にそう思って、出来る限りの抵抗を試みると、ふとした拍子に女性の

手がすべり、反動でワタシは勢い良くその場に尻もちをついた。
   ・・・
 と、それは同時に起こった。

 頭上から何かが勢いよく落ちてきて、ワタシの目の前を風と一緒に横切ると、数秒

も経たないうちに、女性から小さな悲鳴があがった。

 驚いて視線を上げると、必死に腕を動かして顔を守ろうとしている女性の頭のまわり

を、同じようにせわしくうごめく黒い影が見えた。

 バサバサという羽音から鳥だと分かったけれど、目の前で何が起こっているのか、

事態を呑み込むには少しの間が必要だった。

 なぜ、そんなに執拗に女性を襲っているんだろう。 

 威嚇するように近付いたり離れたり、目隠しをするように翼を大きく広げたり。


 少なくとも、ワタシの目にはそれが襲っているように見えた。

 けれど直ぐに、襲っている意味が違うんだ!という直感に似た考えに行き着き、

ワタシは慌てて身を起こすと、女性から少しずつ後ずさった。

 鳥に気を取られて、女性がこちらにはまったく気が付いていないのを見計らい、

今だ!と思える瞬間に踵を返して、一目散に駆け出した。

 振り返らず、ただ、走れる限りの速さで。

 来るまでの道のりを記憶しているかどうかの自信は、はっきりいってないに等し

かった。どこを走ればリシアンサスの部屋に戻れるのかも、一連の出来事で見事に頭

からすっぽ抜けていた。

 どうしよう……。

 とにかく怖かった。次に何が起こるか予測不可能のこの世界で、どうしようもなく

ひとりぼっちなのを、ワタシは強く感じざるを得なかった。

 とにかく走り続けて、息が切れるまで走り続けて、現実的な痛みを伴い始めた時に、

はじめて立ち止まってみる気になって、近くの物陰に身を潜めた。

 外壁と外壁の間。

 息を整えながらその場にしゃがみ込んだワタシは、いつの間にか固く目を瞑って

うなだれていた。

 何だか無性に悔しくて、勝手に涙が溢れてくるのだ。

 悲しいんじゃなく、寂しいのとも違う。

 考えても仕方のないことが次々と頭に浮かんできて、パンクしそうだった。

 両腕で抱えた膝の中に顔を埋めて、ワタシは小学生の子供みたいに泣くしかな

かった。嗚咽も堪えずに、流れ出るままに。

 思考も涙も、まるで堂々巡りのよう……。繰り返されるだけで、それこそ泣きたく

なるほどに。

 いったい今日一日だけで、どれだけ泣いてるんだろう。一生分の涙を流してし

まったような気にすらなってくる。

 その涙がぴたりと止まる瞬間が、今しも訪れようとしていることに、もちろん

ワタシは気がついていなかった。



「君だろう? そこにいるのは……」

 囁くような声が聞こえてきたのは、その物陰に隠れてから、多分、15分くらい

経った頃だった。

「探しに来たんだ。いるんだろう?」

 その声には聞き覚えがあった。そう、たしか……。

「ウォレンです。分かりますか?」

 聞き覚えのある名前が出てきて、ワタシはハッと勢いよく顔を上げた。

 あの人だ! いちばんはじめにこの世界で聞いた声!

 痛い足を何とかごまかしつつ、ワタシは外壁の隙間から這い出て、立ち上がった。

 仄かに照らし出されたその人の姿を目の当たりにして、嬉し涙に変わりかけた雫は

既に引いていた。

 たとえ知り合ったばかりの人でも、ここで出会えたことがこのうえなく嬉しかった。

 明かりを最小限に落としたランプを掲げたその人は、たしかにウォレンだった。

 質素な象牙色の衣服を身に纏っていて、いかにも寝巻風だ。

「ウォレンさん! 良かった。このままどうしようかと……って、どうしてここに?」

 何の気なしに口をついて出てきた言葉に、ワタシは自分でも驚いた。

 そうよ、どうしてここにいるって分かったの?

「教えてくれたんですよ。ここに君がいるから、助けに行って欲しいって」

「……教えてくれた? リシアンサスさんですか?」

「いえいえ」

 ウォレンは首を振って、脇の外壁の上へ手を振り上げた。

 つられて外壁の上へ視線を送ったワタシは、そこにちょこんと乗っている黒い影を

見つけて、「あ……!」と思わず声をあげていた。

「鳥! じゃあ、ウォレンさんがこの鳥を使って助けてくれたんですね」

「いや、私じゃないんです。この、サーガに手紙を貰って」 

「? ……サーガって、鳥が手紙を?」

「いやいや、サーガが手紙を書いた訳ではないですよ」

「………?」

「窓辺で読書をしていたら、サーガが来てね。手紙を見せてくれました。カレアディー

ル王妃から逃げて、迷っているようだからって。サリアス様からの手紙を」

「……サリアスから!?」  


 

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