サリアスの砂時計  
VOL,2



 どれくらいそうしていたのか。

 あんなに溢れていた涙も心の混乱も、ウソのようにどこかへ行ってしまうと、

脱力感と疲労感だけがあとに残った。

 頬が乾いて、つっぱった感じがする。

 あれからずっと泣き続けていたのかな。

 たしか、はじめてここで目が覚めた時には……

 ワタシがああして泣き出すまでは、明るい陽の光に満たされていたはずの部屋が、

今はちょっとだけ薄暗く感じられる。

 天井に伸びる影も光も、夕方の暖かい色と静かな気配に包まれていた。

 自分でも気が付かないうちに、眠ってしまったのかも。

 時間が流れて情景が変わったように見えても、状況はちっとも変わらないんだね。

 知らない場所にいるのだけは、哀しくも変わらなかった。

 もしかしたら、夢が終わって自分の部屋で目覚めたのかな、なんて。

 それこそ夢だった……。

 さすがに泣き疲れたし、生きてる証拠だね。バカ正直に、おなかの虫は空腹を

訴えてくる。

「気分はどうかしら? 何か召し上がる?」

 聞き覚えのある女性の声が奥のほうから聞こえてきた。

 今のぎゅるる〜というハデな音を聞かれたらしい。恥ずかしい。

 ワタシはゆっくりと目線だけを声のしたほうへ移した。

 決して鮮やかではないけれど、地味とも言えない深い藍色の袖のないドレスを

着た女性が、今しも歩み寄ってくるところだった。

 白いブラウスが何だかとてもキレイに見える。

「どう? 落ち着いたかしら?」

 どこまでも優しい声に、また涙ぐみそうになりながら、ワタシは黙ってこくりと

頷いた。

「そう、良かった。ウォレンたちもあなたのことが心配で、しばらくずっと傍に

ついていてくれたのよ」

 そういえば、ワタシたち以外の人の気配がまるでない。

 そっか、あの人たち、ずっといてくれたんだ。

「明日またお見舞いに来るって、ウォレンとラグアは帰ったわ。みんな同じ城の

敷地内に住んでいるから、いつでも呼んでこられるけれど」

 寂しかったらいつでも言ってね、と言ってくれているような気がした。

 それはいいんだけど。

 『城の敷地内』?

 ワタシの知っている現実には、日常まず出てくるハズのない言葉だ。

 ここはやっぱり、どうしたって世界が違うよ。

「食事を持ってくるわね。ボータが用意してくれているから。少し待っていて」

 金色に近い栗色の長い髪がフワリと揺れて、女性はくるりと踵を返した。

「あの……」

 ちょっと待って。聞きたいことが山ほど!

 ん? というように、女性が半身をこちらに傾けたのと、ワタシがベッドから

体を起こしたのは、ほぼ同時だった。

 いざ引き止めると、何から聞いていいのか、迷ってしまう。

「あの……ここは、どこですか?」

「ここは私の私室よ」

「あ、いえ、そうじゃなくて……えっと、外国、なんですか?」

「ここは、ヴィスカイン様が治める
モルリエンの国。ミクラスの城よ。

モルリエン、ご存知かしら?」

 女性も少し不安げに聞き返してきた。

 もちろんワタシは首を横に振った。

 地理に弱いワタシでも、そんな国が地球上に存在しないことくらい、直感で分かる。

 直感? それってアヤシイものだけど……。  

「記憶を失っているとか……ではないのかしら?」

 急に不安が本物になったみたいに、女性は怪訝な顔をした。

「私はリシアンサスよ。あなたは? 自分の名前は分かる? あなたはどこの国

の方なの?」

「ワタシは」

 名前が言えれば、そう、記憶喪失なんかじゃない。

「……ワタシは朝子。柴田朝子。ニホンのトウキョウに住んでて……」

 都内の中学校に通っていた、フツーの受験生で……。

 東京、なんて、分からないんだろうな。

 そう思ったけど、そう言うしかないじゃない?

 リシアンサスと名乗った女性は、開き掛けた口を閉じて、じっとワタシを見つめた。

 首をかすかに傾けて、困った表情をしている。

「ごめんなさいね。アサコさんの国の名前は聞いたことがないわ」
 
 やっぱり……。

 でもね、とリシアンサスは急いで付け加える。

「世界は広いんだもの。私もすべてを知っている訳ではないし、それ以上に知らない

ことのほうが多いわ。きっと、どこかにアサコさんの国のことを知っている人がいる

と思うの」

「そう……ですね」

 アリスじゃないんだから、フシギの国なんて冗談はやめて欲しい、という気分

だったけれど。

 世界は広い。

 そう言われれば、ワタシのほうも知らないだけなのかも、と思えなくもないけど。

 現実ばなれした成り行きが、かえって冷静にさせてくれるようで、ワタシは

少しずつ色々とものを考えられるようになっていた。

 ここは知らない場所。おまけに誰も何も分からない。

 じゃあ、ワタシはどうするのか。その先を考え始めるべきよね。

「もうひとつだけ聞いていいですか?」

「なにかしら?」

「さっき、皆さんで話してましたよね? ワタシが誰かにそっくりだって。

それって誰のことなんですか? サリアスって……」

「……それは……」

 途端、リシアンサスの顔が今まで以上に困惑したものに変わった。
 
 触れてはいけないことだった? まるで、禁忌を口にしてしまったみたいな。

「それは……私から話すよりも、明日、ラグアからきちんと聞くほうが良いと思うの。

私が言うと、軽々しく言うことではないって、怒られるから」

 苦笑いを浮かべている。

 軽々しく言うことじゃないって、なになに? そんな深刻なこと?

 何だか、嫌な予感がしてきた。

 そのサリアスって人、もしかして、とんでもない人?

 フツーに話せないような人にワタシが似てるなんて……。

 ちょっとカンベンして欲しい。

 ワタシの顔がよほど強張っていたのか、リシアンサスは慌てて両手を振った。

「ああ、誤解しないでちょうだいね。サリアス様は決して悪い方ではないのよ。

ただ、事情があって……」 

「この国の秘密なのよ」

 突然、別な声が割って入ってきた。

 ワタシもリシアンサスも、同時にハッと緊張する。

 L字に曲がった部屋の角から、例の恰幅のいいオバサンが現われた。

 手には、柔らかそうな大きな布で覆われた何かを持っている。

 いい匂いがする。
 
 そう思った途端、ぎゅるる〜と、またおなかの虫がなった。

 こんな時に、そんな正直な声を出さなくてもいいのに……。

 オバサンは「あはは」と豪快に笑って、ワタシたちのほうへ歩み寄ってきた。

「体はもう大丈夫そうね。先に食事をお上がりなさい。話はそれからだ」

「ボータ、ごめんなさい。少し、お喋りが過ぎたかしら?」

 リシアンサスが小さくなっている。

「いずれ、この部屋を出た途端に、嫌でもこの子の耳にも入るわ。少し早いか、

遅いかの違いだけよ」



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